問:ある甲が乙のために善行を行い、乙は甲の助力を得ました。甲は乙からの返礼や報いを受けたいと考えています。甲にとって、乙から現在報いを受けるのが得策か、来世で報いを受けるのが得策か、あるいは因果の自然な報いを受けるのが最も得策でしょうか。
答:無所求の心をもって、因果が自然に償われるのを待つのが最も得策です。甲は善行を行いましたが、報いを求めず、これは無報いの心で事を行ったことになります。甲が報いを図らなくても、因果の法則は自然に報いを生じさせ、この場合の果報が最大となります。無為の心で善事を行えば善報は最大となり、有為の心で悪事を行えば悪報は最大となります。無為の心で善事を行えば心が大きく、報いも大きくなります。如来蔵にこのような法則がある理由はわかりませんが、善事の果報を最大化したい者がこの隙を突こうとするかもしれません。隙を突こうとする心があれば依然として心が存在し、心があれば心は小さくなります。無心であれば心は最大となります。報いを求め、目的を持って善事を行えば心が存在し、心があれば心は小さくなります。報いを求めず、私心なく善事を行えば心が大きく、心が大きければ果報も大きくなります。
三宝のために善事を行えば、果報は最大となります。もし私心が混じり、金銭や名利・地位・権力などを求めるならば、大きく目減りします。強い私心を持って善事を行い、三宝を商売の道具とし、三宝から利益を得ようと図るならば、悪事に転じ悪報を受ける可能性があります。
もし煩悩が重く、三宝から利益を図ろうとしてそれが叶わず、瞋怨を起こすならば、地獄の果報を受ける可能性があります。全ての罪業は煩悩から生じ、全ての煩悩は「我」から生じます。そのため我見を断った後でなければ、煩悩を軽微にすることさえできず、ましてや煩悩を滅尽し解脱を得ることはできません。世の中の至る所で、国家間から団体間、個人間に至るまで、衆生の貪瞋痴の煩悩を見ることができ、煩悩が熾盛に蔓延していると言えます。末法の世は畢竟末法であり、衆生の業は重く障りは深く福は薄く、罪業は善業をはるかに上回り、悪報は善報をはるかに超えます。そのため来世には極めて多くの者が三悪道に趣き果報を受けることになり、これは必ず避けられません。死亡や病苦などは些細なことです。
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