第七識は第八識の見分を縁とし、第八識が本質境を見た後に四大の微粒子を摂取し、最初の影像を形成します。本質境の質である四大種子を帯びたこの影像を、第七識が見て自らの所見であると錯覚し、これらを全て我と執着し、第八識を介して四大の質を帯びた法を勝義根へ伝送します。六識の了別と執取を借りて行われますが、勝義根へ伝送された法は既に第七識が最初に見た本来の法ではなく、単なる相似に過ぎません。六識はこの理を知らず、全てを真実と見做します。第七識と第八識の間の相分は、一つは第七識の心中に生じ、もう一つは六識の心中に生じます。しかし六・七識の縁とする相分には一定の差異がありながら、六・七識はこれを認識できず無視します。これもまた無明です。
勝義根の黒匣子に伝達された相分は六識が縁とする所となり、縁した後は六識の心中に顕現します。この時六識心中の相分は鏡中の影像の如く質的変化を起こし、もはや本質境の実質的な四大種子を帯びず、似帯質あるいは仮帯質と呼ばれます。外相分に相似し、本質境に相似し、真帯質境に相似するものです。
もし神通力を有する者が六識を完全に訓練し、一切の六塵境界に対し如如不動となり、その幻化たるを悟り実用性なきを知れば、勝義根の黒匣子における六塵相分は六識身に対し何らの作用も及ぼし得ません。高山大海も六識身を阻むことなく、山水は全て仮境・仮相分であり、鏡中の影像で実質的作用を有しません。六識身に大火が燃えても六識は動ぜず、火焼刀斬も身に障りなきが如し。火と刀は全て仮境界・仮法であり、鏡中の相分と同様、何ら実質的な作用力があるでしょうか。
衆生はこの理を解せず、また禅定も修せざる故、境界が現れると心動転して身心に傷を被り、仮境界に傷つけられます。冤罪ではないか?落胆ではないか?悔しさではないか?
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