衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2020年06月01日    月曜日     第3開示 合計2369開示

証道の後に雨相を見る

問:証道して以後は雨の相を見ても、心の中に自然に雨の相がなく、雨が降っていることも分かるが、執着しない、ということでしょうか。証道以前は執着しやすく、別のことがあって心念を転移させたり、あるいはこの雨を気にしない場合を除いては。凡夫の元来のシステムはカメラのように、心念の中にネガを残すものなのでしょうか。

答:いわゆる着せず住せずというのは、雨の相および一切の相に直面したときの内心の功夫でなければなりません。相を避けることは、まさに相に着かず相に住することができないことの証明にほかなりません。開悟以後の三賢位の菩薩は雨の相を見ればやはり雨の相に着しますが、以前よりは軽微なだけです。初地からようやく次第に雨の相に着かなくなり、八地の菩薩に至って、初めて真に雨の相およびその他一切の相に着かなくなるのです。

したがって開悟以後は真如へ転依しなければなりませんが、初地の菩薩になって初めて真の転依が語れるのです。それは第六・第七識がともに転識成智しているからで、これが真如への転依の標誌です。八地の菩薩になって初めて大部分を転依できますが、それでもまだ究竟ではありません。地前の菩薩は口では転依を叫んでいますが、煩悩がある以上、転依成功 (āśraya-parāvṛtti) はあり得ません。一方、真如には煩悩がなく、第六・第七識と真如の心性は似ているでしょうか。まったく似ていません。染汚が重いからです。スローガンを叫んでも、初地になって初めて一部分が相応するのです。開悟していない人がスローガンを叫ぶのは、まったくの無軌道な叫びにすぎません。自分の本来の面目すら見定められないのに、自分を高く掲げて転依を語る。頼る山を見つけていないとき、何に頼れるというのでしょうか。また、自分自身で自分を持ち上げることはできず、如来蔵 (tathāgatagarbha) と因果によって持ち上げられて、初めて持ち上がるのです。

——生如法師の開示
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好雨滴滴も他処に落ちず

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如何是見相離相

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