如来蔵は我でありながら我ではない。この道理は甚深にしてまた甚深である。五蘊は無我であり、如来蔵が生じる一切の法もまた無我である。それらはすべて生滅し、空であり、無常であり、苦なるがゆえに、執着すべきではなく、執着することもできず、保つこともできない。
しかし衆生の如来蔵は苦・空・無常の変異するものではなく、その心には我がなく、我の存在を認めず、主となる我性を具えていない。その心体にはなお生滅変異する染汚業種を含んでいる。仏地に至り、仏の如来蔵たる無垢識において染汚業種が滅尽され、種子が再び生滅変異しなくなってこそ、真実の我性が現れ、真実の我となるのである。
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