衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年05月05日    火曜日     第1 回の開示 合計2322回の開示

妄見とは何か

「妄」とは虚妄の意味です。楞严経では妄見を別業妄見と共業妄見に分けて解説しています。これらはすべて衆生が世俗界における見、虚妄法を見ることを指します。妄見の一つの意味は虚妄七識の見であり、もう一つの意味は七識が見る六塵法がすべて虚妄不実であることです。七識が見るもの如何が虚妄不実であるのか?虚妄の最終と根本の意味とは何を指すのでしょうか?

楞严経において、仏は私たちに妄見とは何かを解説しました。眼病のある人は灯光の下で赤色の円影を見ますが、眼病のない人はすべて灯光を見、赤色、黑色、黄色などの円影はありません。灯光の下には円影は存在しないのに、眼病があると虚妄的に円影を見ます。眼病があることを妄見と呼び、妄見により本来存在しない法を見、此法も虚妄不実です。仏はこれを比喻として衆生の心にはすべて無明病があり、山河大地、宇宙器世間の六塵境界、六道衆生、そして衆生の生老病死を見ます。無明による見を妄見と呼び、妄见の見更是妄です。諸仏には無明病がなく、見るすべては真如相であり、妄法も世俗法もありません。無明のない第八識如来蔵も妄見がなく、世俗法を見ず、虚妄相を見ず、六塵相を見ず、衆生相を見ず。

もし有人が自分が真实的に六塵境界を見、你我他她を見、衆生を見、世俗法相を見たと言うなら、これらは無明妄見です。世俗界に真实存在する法相を見ることは無明妄見であり、世俗法を有として坐実することは妄見です。不妄見は何を見るのか?真如仏性を見、不生不滅の実相を見、諸仏が見る如くです。

真法如来蔵を学び、妄法の妄を徐々に看穿、看破、看透し、妄法の实质を看透することで、徐々に妄見無明見を減少し、煩悩と痛苦も徐々に減少します。徐々に佛陀智慧へ趣向し、最後に佛陀如く無明尽となります。これらは快乐の源泉、解脱の光明大道です。

——生如法師の開示
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