仏法を学ぶ究竟の目的とは、無明煩悩を断じ尽くすことであり、煩悩を断じ尽くすことが無学 (aśaikṣa) であり、それ以降は仏法を学ぶ必要がなくなるのです。小乗の無学位とは四果大阿羅漢と縁覚辟支仏であり、大乗の無学位とは仏世尊です。小乗の無学は、三界の生死を解脱することにおいて一念無明を断じ尽くして無学となっただけであり、まだ一切の無明煩悩を断じ尽くしてはいないので、実はまだ有学なのです。大乗では一念無明を断じ尽くすだけでなく、無始無明をもすべて断じ尽くしてこそ無学となります。無明がある限りは学ばねばならず、無明がなければ学ぶべきものはなくなります。すべて理解し、すべて証得すれば、学びは終わりとなるのです。
小乗の尊者である四果阿羅漢の周利槃陀伽は、前世の業障のために、四果阿羅漢を証得したにもかかわらず、法を説くことができませんでした。法を説くことはできませんでしたが、一念無明は断じ尽くされ、煩悩も断じ尽くされ、三界を出離して解脱を得ることができる無学の聖者であり、四聖諦の解脱の理を改めて学ぶ必要はありません。一方、大乗の無学である仏世尊は、一切の無明を断じ尽くしておられ、すべての仏法を口にすればすぐに出てきて、すべてを説くことができます。菩薩たちもまた法を説くことができます。菩薩は衆生を離れず、衆生とともにあるので、必然的に法を説かなければならないからです。法を説くことによって大きな福徳が集まるので、菩薩は阿羅漢よりも法を説くことに長け、より多くの福徳を持っているのです。さらには、仏道を学び始めたばかりの菩薩でさえ、仏法を理解していなくても法を説かなければならず、とりとめのない説法をして、自分でも何を言っているのか分からないほどなのです。
仏法を学ぶ目的が明確になった以上、私たちは仏法を学ぶにあたって、あちこちで仏法の知識を誇示すべきではありません。知識を学び、知識を身につけることは目的ではなく、煩悩を断除するための手段なのです。煩悩が断除されれば、衆生を度するために法を説くときを除いて、すべての知識は用がなくなります。ですから、仏道を学ぶ過程においては、自分の無明煩悩を観察し、煩悩を降伏させ、煩悩を断除することが非常に重要であり、仏学の知識はそれほど重要ではなくなるのです。私たちは本末転倒してはなりません。自分の煩悩を顧みず、あちこちで知識ばかりを学ぶようなことがあってはなりません。たとえ知識を五大車分ほど学んだとしても、煩悩のために一つでも悪業を造作すれば、重ければ無間地獄、軽ければ畜生道に落ちます。仏学の知識は自分を救えるでしょうか。豊富な知識を携えて三悪道に行き、まだ誇示する機会と気持ちがあるでしょうか。
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