意根(マナス)が一旦ある理を認めると、それは常に断固として迷いのない状態である。意識によって思量されたものは必ず狐疑(疑い)が生じ、躊躇い、繰り返し揺れ動く。自転車に乗ることに例えれば、実際に乗れることと「乗れると思っている」ことは全く異なる二つの状態であり、前者は迷いがなく、後者は心に完全な確信がなく、自信を持てない。ある者は内心に疑念を抱きながらもその自覚がなく、自分には疑問がないと思い込んでいる。それは心が粗雑で、内観する力が弱く、定力(精神統一の力)が不足しているためである。よって真相を見なければ、自らを欺くことになる。
意識のみが我見(がけん:自我への執着)を断ち、意根が我見を断たない場合、意根は熏習(くんじゅう:習慣の影響)を受けず、依然として凡夫の意根のままであれば、来世で胎内に入る際に意識は滅し、再び人として生まれた時には意識も意根も我見を断っておらず、意根の現れは前世の凡夫と全く同一で違いがない。それでは前世で証果(悟りの境地を得る)した功徳はどこに現れるのか?
実際には、前世で真に証果し明心見性(みょうしんけんしょう:心の本性を悟る)した者は、意根が熏習を受けるため、再び人として生まれた際、その心行(しんぎょう:心の働きと行為)は凡夫とは決定的に異なる。前世における修行期間が長ければ長いほど、その心行はより清浄となり、凡夫との差異はより大きくなる。仏法を学ぶ前は、意識すらなぜ自分が他人と異なるのか理解できず、人から「馬鹿」呼ばわりされた時、意識は心の中で苦悩を感じる。時には他人と同じように、社会のリズムに合わせようと、同様に貪・瞋・痴(とん・じん・ち:貪欲・怒り・愚かさ)を起こそうとするが、意根がそれを全く望まないのである。
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