衆生は皆、色身を我・我所とみなし、また外界の生存環境をも我が所有物とみなしています。色身が我に非ず我に非ざることを思惟観行するには、まず生存環境である六塵境界が我に非ず我に非ざることを思惟観行し、その基礎の上で色身が我に非ず我に非ざることを観行すれば、比較的容易になります。
なぜこのように言うのでしょうか。外界の六塵は色身と同じく、いずれも如来蔵の中の地水火風空の五大の種子から構成されており、性質が同じであるうえ、外界の六塵は自心から離れる距離が色身よりやや遠く、執著や思惟がいくらか軽いため、着手しやすいのです。仏は、外界の六塵はわれわれの外身であり、外界とも呼ばれ、色身は内界・内身であり、内外は相輔相成して相通じていると言われました。六塵が我に非ず我に非ざることを確認するのは比較的容易であり、色身も六塵と同じ理です。そうすれば自心と色身との距離が開き、いくらか切り分けられるようになるので、色身が我に非ず我に非ざることを観行して確認することも、はるかに容易になります。
世俗界において色身を研究する科学は医学と呼ばれます。中医学においても、色身の構造は山河大地と似ており、同じ類であると説いています。身体を治療する際、色身を神秘的で特別なものと見なさず、山河大地と同じものとして治療し、生存環境を整えるのと同じようにすればよいのです。中医学のこの見方は非常に科学的であり、仏法に近く、われわれに大きな啓発を与えてくれます。観行の切り口が見つかり、着手が速やかになります。
世俗の法には「流水腐らず、戸枢蠹さず」という言葉があります。色身も同様で、身体が詰まると臭気が生じ、腐敗して腫瘍や癌細胞が現れます。器世間において四大が調和しなければ、河川の決壊、地震・津波、火災や風災が氾濫し、滄海は桑田となり、桑田は滄海となります。色身もまた同様で、四大が調和しなければ、気虚・血虚、風寒、上火、泄瀉、腫瘍や癌などが現れるのです。
楞厳経の中の諸々の聖者も、外界の地水火風を観行し、さらに自らの身の地水火風を反観することによって、種々の三昧 (samādhi) を証得し、成就を得たのです。それゆえ、六塵境界の観行から着手することは、色身を観行する一つの近道なのです。
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