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日常法話

2020年02月29日    土曜日     第1開示 合計2172開示

『楞厳経』に説かれる身根・触塵の虚妄

原文:阿难。汝常晨朝以手摩头。于意云何。此摩所知。谁为能触。能为在手。为复在头。若在于手。头则无知。云何成触。若在于头。手则无用。云何名触。

解釈:阿難よ、あなたはいつも朝に手で頭を撫でているが、どう思うか。頭を撫でることによって生じる知において、どちらが能触の知なのか。手が触知するのか、それとも頭が触知するのか。もし手が触知するのであれば、頭は触を知ることができない。それではどうして手が頭に触れると言えるのか。もし頭に触知があるのであれば、手は用をなさず、触を知ることができない。それではどうして手が頭に触れると言えるのか。

原文:若各各有。则汝阿难。应有二身。若头与手一触所生。则手与头。当为一体。若一体者。触则无成。若二体者。触谁为在。在能非所。在所非能。不应虚空。与汝成触。是故当知。觉触与身。俱无处所。即身与触。二俱虚妄。本非因缘。非自然性。

解釈:もし手と頭の両方が触知できるのであれば、あなた阿難には触知できる身体が二つあることになる。もし頭と手が一つの触から生じた知覚であるなら、頭と手は一体であるはずである。もし一体であれば、触は成立しない。自体が自体に触れることはできないからである。たとえば鼻は鼻に触れることができず、首は首に触れることができず、甲は甲自身に触れることができず、乙は乙自身に触れることができない。必ず甲と乙の二者が触れ合ってはじめて、触は成立するのである。

もし頭と手が二体であるなら、どちらが能触なのか。能触するものは知があり、所触されるものは知がない。もし手が能触であれば、頭は所触であり、所触は知がないので、頭は知がないことになる。しかし頭は手と同じように知がある。もし頭が能触であれば、手は所触であり、手は知がないことになる。しかし手は頭と同時に知がある。頭と手が虚空と触れるはずはない。虚空は所触で知がなく、頭と手は能触で、いずれも知がある。この道理は成立しない。したがって、覚知される触塵と身体はいずれも処所がなく、身体と触塵の二者はともに虚妄であり、本来因縁性ではなく、自然性でもなく、いずれも如来蔵性である。

——生如法師の開示
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