原文:賢護よ、衆生の身体が死んでも、識は受覚法界を持ち受けて、他生に至る。父母の縁によって、識はそれに託する。受覚法界は、ことごとく識に随う。これまた同じである。例えば、花の勝れた力によって、鼻に嗅ぎがある。嗅ぎの勝れた力によって、香りの境を得る。また、風身の勝れた力によって、風色の触を得る。風の勝れた力によって、香りは遠くまで至る。このように、識によって受があり、受によって覚があり、覚によって法があり、ついに善と不善を了知することができる。
釈:仏は説かれた、賢護よ、衆生の色身が死んでも、阿頼耶識は受覚法界の種子を持って、また次の生へと去って行く。中有身において父母の縁によって、阿頼耶識は受精卵の中に託する。名色が生じる。受覚法界はことごとく阿頼耶識に随って次の生の色身に遷入するのも、これと同じである。あたかも鮮花の殊勝なる力によって、鼻に嗅ぎの性があるように。鼻の殊勝なる嗅ぎの力によって、花の香りの塵境を嗅ぐことができるように。また例えば風体の殊勝なる力によって、風と花色体の触れ合いを得る。さらに風の伝送する力によって、花の香りが遠方に漂うように。同じ道理で、阿頼耶識によって受が生じ、受によって覚があり、覚によって法の顕現があり、衆生は法の善性と不善性を了知することができる。
阿頼耶識の中には受覚法界の種子が含蔵されている。因縁が成熟すると、受覚の業種と六識の種子を出力し、受覚が現れる。衆生には受と覚の功能作用がある。身根の種子が最も早く父母の因縁に依って身根を生じ、その後、識の種子も次々に出生して作用を起こす。眼・耳・鼻・舌などの四根の種子は身根に依って出生し、六根六塵の因縁に依って、六識の種子もまた功用を発し始める。このようにして、受覚法界が再び生起する。
花に香りがあるため、鼻根は嗅覚の機能を持つ。鼻根の嗅ぐ性及び鼻識の力に依って、私たちは花の香りの境を嗅ぐことができる。鼻根が花の香りの味塵を摂取し、根塵が触れ合うと、鼻識が生じて香塵を了別し、すなわち香塵の相を摂取し、花の香りを覚える。鼻識と意識心の作用によって、香塵の相を取り、香りの境を得る。識があって初めて得ることができ、識がなければ得ることはできない。得とは取相の意味、すなわち執取の意味である。
風大自体に伝送する力があるため、風色が触れ合い、風と花が触れ合うと、花の香りが別の場所に漂う。同じ道理で、阿頼耶識も種子を輸送する功能作用がある。人が死んだ後、阿頼耶識が業種と触れ合い、五蘊を他の世界の別の色身に移す。風の推送があるため、花の香りは遠くまで漂うことができる。同様に、阿頼耶識があるため、受覚法界の種子を別の色身に移すことができる。風大は阿頼耶識に譬えられ、花は身根に譬えられ、花の香りは受覚法界と五蘊の種子を表す。鼻根に嗅ぐ性があるのは、鼻識の作用があるためであり、私たちは香りを嗅ぐことができ、覚知がある。これは受覚が六識の作用であることを示し、六識は色・声・香・味・触・法の六塵を取ることができ、六塵は心識の上に顕現することができる。
原文:賢護よ、衆生の身体が死んでも、識は受覚法界を持ち受けて、他生に至る。父母の縁によって、識はそれに託する。受覚法界は、ことごとく識に随う。これまた同じである。例えば、花の勝れた力によって、鼻に嗅ぎがある。嗅ぎの勝れた力によって、香りの境を得る。また、風身の勝れた力によって、風色の触を得る。風の勝れた力によって、香りは遠くまで至る。このように、識によって受があり、受によって覚があり、覚によって法があり、ついに善と不善を了知することができる。
なぜ六識は色・声・香・味・触・法の六塵を取ることができるのか? 色身があり、六根があり、また如来蔵があり、阿頼耶識があるためである。阿頼耶識は六塵を伝送することができ、六識はそれに依って出生し、受覚が現れ、塵境が顕現する。これは阿頼耶識が六塵を変生し、また六識を変生できることを示し、六識は初めて六塵を取得できる。阿頼耶識から受が生じ、感受から覚知があり、覚知があれば相が現れる。例えば阿頼耶識が音声を伝送し、根塵が触れ合って耳識が生じ、耳識が声を聞いて受があり、受があれば感じ、音声は耳識の上に顕現する。鼻識があるため、香塵は了別され、顕現することができる。覚から法がある。覚知があるため、六塵法が出現し、法は六塵を表し、覚は六識を表す。
六識の覚知とは、眼識は見ることができ、耳識は聞くことができ、鼻識は嗅ぐことができ、舌識は味わうことができ、身識は感じることができ、意識は知ることができる。これを覚という。眼識にはどんな法があるか? 色塵が現れる。眼識がなければ色塵があると知ることができるか? 眼識が色塵を取れば、色塵は出現する。例えば眼識があって初めて机の上のコップの相を取ることができる。眼識がなければこのコップの相を取ることができるか? それではコップがあることを知らない。眼識が出現して初めてコップを了別し、眼識はコップの相を取り、これが眼識が色塵を取ることである。
また例えば、耳識があって音声を聞くことができる。耳識は声塵を取ってくる。識がなければ取れるか? この取る過程は想う過程であり、一つは了知作用、もう一つは取相作用である。想は想心所であり、想蘊とも呼ばれる。想蘊はまず了別し、了別した後、これが何であるかを知る。すなわち取ったのであり、分別した後は取相し、そして名前を付ける。これが想の全過程である。鼻識があれば香塵を取ることができ、身識があれば陽光の温かさ、飢え、渇き、疲れなどの触塵を取ることができる。意識があれば法塵を取り、一切の法を了知し、善悪、是非、善し悪しを知ることができる。
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