衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年01月24日    金曜日     第1 回の開示 合計2116回の開示

無明に来処はあるのか

無明が無明と呼ばれる理由は、無明が不明であるためです。不明には出处がなく、出处がないため来处もありません。もし無明に出处と来处があるなら、無明はどこから生じたのでしょうか?無明が生じる前には、それは明であり、明であるならそれは仏です。しかし衆生は一度も仏になったことがなく、もし仏になったなら、再び無明が現れ衆生になることは不可能です。

意根は無始劫以前から本来無明を持ち、本来不明であり、本来仏ではありません。後にどこから無明が生じたわけではなく、明から不明へ変わりました。現在見る世間には無明を生じる方法がなく、無明には出处と来处がありません。もし無明に来处があるなら、帰处もあり、来处はどこでしょうか?帰处はどこでしょうか?もし無明に帰处があるなら、某处に聚集すれば、ある日無明は爆満して冲出去し、再び意根に無明を持ち、仏陀は再び衆生になります。このような事は起こりません、否则仏を学び成仏には意味がなく、費尽周折でも生死の大苦から脱离できず、衆生は永遠に衆生です。

もし無明に来处があるなら、無始劫以前には無明がなく、無明は后来的であり、無明がない時は仏です。仏如何無明を生じ衆生になるでしょうか?無明を滅除する時、無明はどこへ滅されたでしょうか?無明は根なく、实体ではない、来处も滅处もありません。明が来れば無明自然に消失し、二者は并存せず、此れが生じれば彼れは消え、此れが存在すれば彼れは無くなり、両端のように、高低相等です。

——生如法師の開示
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