虚空蔵菩薩は自らを紹介して次のように述べられました。「この身は微塵の国土に善く入ることができる」と。十方の微塵の国土がすべて虚空蔵菩薩の色身の中に入っているならば、虚空蔵菩薩の色身もまた十方の微塵の国土の中に入ることができるのです。つまり十方の微塵の国土と虚空蔵菩薩の色身は互いに交融し、妨げることなく一体となり、菩薩の神力はこのように神妙であり、広く仏事を行い、衆生を利益し、夢中の仏事を大いに成し遂げるのです。虚空蔵菩薩は十方世界の衆生の因縁に随順し、無量の衆生を広く度脱されます。十地の菩薩の神力は私たちの想像を超えるもので、なぜこのような大いなる神力を持つかといえば、極めて深妙な智慧と甚深の禅定の境地を具えているからです。無量無辺の神通道力はこれによって発現するのです。
なぜ虚空蔵菩薩はこのような大いなる神力を持つのでしょうか。虚空蔵菩薩は自ら次のように述べられました。「この大いなる神力は、私が諦観することにより、四大に依る所なく、妄想の生滅によるものである」と。虚空蔵菩薩は深妙な智慧をもって仔細に観察し、観行されました。禅定の中に智慧の心を生じ、定中に思惟することを諦観と申します。止観双運、定慧等持によって初めて諦観が成り立ちます。七地以上の菩薩は念々に定中にあり、不定の時はありません。諦観の結果、四大によって構成された色身には依る所なく、実体としての色身や色法の存在がないことを証し、この深妙な智慧によって無量広大な神通が発現し、辺際なき広大な神力を得られたのです。
この無辺の神力は定と慧の共同成就によって生じます。ゆえに虚空蔵菩薩が諦観された内容とは「四大に依る所なし」という真理です。四大とは地水火風の四大種子によって形成されたもので、如来蔵はこの四大を用いて色声香味触法を広く造り出します。宇宙の器世間は四大によって造られ、すべての衆生の色身は四大によって構成されています。楞厳経において仏が説かれたように、四大は本来如来蔵の性質であり、実質もまた如来蔵にほかなりません。したがって四大によって構成される一切の法は皆依る所なく、幻化したものであり、実体としての物質色法の存在はないのです。
物質色法は如来蔵の四大によって生じますが、四大自体もまた依る所がありません。衆生の妄想によって生じ、衆生の妄想に依って如来蔵はこれに随順し、四大によって構成された色法の物質世界を変造します。この妄想とは七識心の想い、七識心の思惟、七識心の作意であり、七識心の作意による触受相思によって、如来蔵は四大を用いて十方世界を生成します。十方世界は四大によって成り立ち、如来蔵は妄想心に依り、七識心に依って十方微塵の国土を生じさせるのです。
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