衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2019年11月27日    水曜日     第1 回の開示 合計2061回の開示

『首楞厳経』第五巻 二十五聖円通の法門における摩訶目犍連

原文:大目犍連は即座より起ちて、仏足を頂礼し、仏に申し上げました。「私は初めて托鉢の途中、ウルヴィルヴァ・カッサパ、ガヤー・カッサパ、ナディー・カッサパの三迦葉兄弟に出会い、如来の因縁深義を説くのを聞きました。私は瞬時に発心し、大いなる通達を得ました。如来は慈悲をもって袈裟を授け給い、髪と髭は自然に落ち、心の光明が発現しました。濁った流れが澄みきるが如く、永劫を経て清浄透明となりました。これが第一の円通法門でございます」

釈:大目犍連は座より起ち、仏足を礼して申し上げた。初めて托鉢の途上で三迦葉兄弟に出会い、彼らが世尊の説かれた因縁法の深義を論じるのを聞き、即座に悟りを開き因縁法を体得した。如来より四果の大阿羅漢の位を賜り、瞬時に袈裟をまとい、鬚髪は落ち、内なる大智慧の光が顕現した。あたかも濁流を澄ますが如く、長時をかけて清浄となった。これが第一円通法門の成就である。

大目犍連が述べた修行法門は最も簡明である。なぜこれほど簡単かというと、前世ですでに修行を積み、意根は数多の証悟を経ており、今生の新たな意識が法要を聞くやいなや、瞬時に念を収めて証果を得たからである。彼の意根は生来より四果大阿羅漢と相応じ、極めて高い境地にあり、煩悩なく智慧深く、ただ意識のみが残されていた。初果の者が再来する際、意根は前世で既に証得しているが、新たな意識は未経験であるため、再証は凡夫より速やかではあるが、阿羅漢に比べればなお遅い。意根の無我の智慧は浅く、無明はなお重く、意識への薫染は微弱で、意識の無明は深い。よって仏法に触れる際には、再び証果するまで修習を要するが、未証者よりは速やかである。修証の過程においては、意識の学習のみならず、意根の薫修がより重要であることが明らかである。後世においては意根が意識を薫染し牽引し、その後意識が新たな深法を学んで再び意根を薫染牽引する。両者が相互に薫染し合うことで、道業は急速に進展するのである。

——生如法師の開示
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《首楞厳経》第五巻 二十五聖円通の法門における舎利弗

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