衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年11月26日    火曜日     第2 回の開示 合計2060回の開示

なぜ甚深な禅定があれば、心は大自在を得ることができるのでしょうか?

禅定はまた心を一処に制することとも呼ばれ、心を一処に制すれば、成し得ざることはない。外道も心を一処に制することができ、阿羅漢や辟支仏も心を一処に制することができ、諸大菩薩も心を一処に制することができ、諸仏はさらに心を一処に制することができる。皆が心に自在を得、相応の意のままに従い、相応の事業を成就する。しかし禅定の深浅の程度が異なり、智慧が異なり、心量が異なるため、心の自在の程度も異なり、成就する事業も異なる。

一般人の禅定に対する理解は、定は一種の束縛であり、身体の頭や手足を縛り、心の自由な想像を制約するものとする。しかしもし身体が束縛を受けずに放浪し、力が四方に分散すれば、一切の法を変化させ改める強大な力は生じない。もし心が制約を受けずに八方に分散して自由に想像すれば、一切の法を指揮し創造する強大な力は生じない。このように身心は永遠に環境の制約を受け、自在ではなく、まして大自在などあり得ない。

禅定修行の最初の段階では、身体は束縛を受け、心も制約を受ける。しかし禅定が次第に深まるにつれ、身体の四大に変化が生じ、気血が円滑になれば、地水火風の四大の束縛を受けず、ますます軽安と自在を感じるようになる。同時に心も色身や境界の束縛を受けず、ますます恬淡で快楽に満ち、より自在になり、より力を得る。自在と解脱を得る心はどれか。最初は六識の心である。五識が身体内外の五塵境の束縛を受けず苦痛を感じず、意識が法塵の制約を受け煩悩を感じない。次第に意根が色身内外の境の束縛を受けず、塵境に攀縁せず、次第に一処に集中し、力が集約され、心力が増大する。この時意根が求める境界が現前し、如来蔵がこれに随順して護持するため、意根は六識と如来蔵を利用して一切の法を改め、一切の世間を変化させる。しかし禅定が深まるほど六識の機能は小さくなり、ついには六識を用いず、意根が如来蔵を伴って天地を自由に往来し、十世古今を制約なく遨遊し、大自在を得る。これが解脱である。故に解脱は寸分たりとも禅定を離れず、大智慧も離れない。最初は戒律も離れられない。戒律は当初身心を制約し、従前のような自在や我儘を許さないが、そのような自在や我儘は実は不自在であり、悪業を造り苦報を招く。一旦身心が戒律に慣れ、悪業を造らなくなれば、身心は戒律の束縛を感じず、随所で自在を感じ、戒律の存在や制約を意識しなくなる。

ちょうど最初に制定された交通規則が左側通行であったように、衆生は我儘に慣れ、左右中央を勝手に通行し、左側によることを好まない。この時は交通規則の束縛を不自在に感じる。しかし交通規則に慣れると、自然に左側通行するようになり、少しも束縛を感じず、真の自在を得ると同時に通行の安全を保障される。以前の交通規則を守らなかった所謂自在は実は不自在であり、人身の安全を保障できなかった。全ての法則について、慣れない時は束縛と感じるが、慣れれば自在を感じ、束縛感がなくなる。修行とは衆生に良き習慣善き習慣を具足させ、過去の悪習を改めさせることである。良き習慣善き習慣は解脱であり、悪しき習慣は束縛と不解脱であり、苦果を受ける。

ある人々は五戒を受けることを好まず、まして菩薩戒を受けることを恐れ、戒律の束縛を畏れる。しかし仏陀は戒律が衆生に解脱をもたらすと説き、これを別解脱戒と呼ぶ。一戒を守ればその戒について自在となり、一つの悪業を減らし、身心に一つの解脱を得る。戒を守ることに慣れれば、戒律の存在や制約を感じず、戒を守るという観念もなくなり、戒について自在となり、矩を踰えずして意のままに従うことができる。

諸仏菩薩は久遠の長劫にわたり戒を守り、既に戒律の束縛を受けない。故に諸仏菩薩は戒を守らず、また犯さない。仏は無戒者であり、最大の自在解脱者である。凡夫は必ず戒を受けて守る修行段階を経なければならない。一旦戒律に慣れれば、諸仏菩薩のように戒律の束縛を受けず自在解脱するのである。

——生如法師の開示
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