原文:大目犍連は即座より立ち上がり、仏足を頂礼して仏に申し上げた。私は初めて托鉢の途上にて、優楼頻螺・伽耶那提・三迦葉波の三兄弟に出逢いました。彼らが如来の縁起の深義を説くのを聞き、私は瞬時に発心し、大いなる通达を得ました。如来は慈悲をもって我に袈裟を着せ給い、髪は自ら落ち、心の光明が発現しました。濁り流れを澄ますが如く、久しくして清らかに瑩(す)み渡りました。これが第一の円通法門でございます。
釈:大目犍連は座より起立し、仏足を頂礼して申し上げた。初めて托鉢の途中で優楼頻螺・伽耶那提・三迦葉波の三兄弟に遭遇し、彼らが世尊の説かれた縁起法の深義を論じるのを耳にした瞬間、直ちに悟りを開き縁起法を体得した。如来より四果の大阿罗汉の位を賜り、瞬時に袈裟をまとい、髪は自然に落ち、内なる大智慧の光が顕現した。ちょうど濁流を清澄する如く、長時を経て清浄透明となった。これが成就した第一円通法門である。
大目犍連が自ら述べる修行法門は最も簡明である。何故かくも容易か。前世において既に修行を積み、意根は幾度も証悟を経ておる故、今世の新たな意識が法要を聞くやいなや、念いを収めて直ちに証得する。意根を再び薫習する煩わしさは不要であった。彼の意根は生来より四果大阿罗汉と相応じ、極めて高い境地にあり、煩悩なく智慧深く、ただ意識のみが残されていた。初果の者が再来する際、意根は前世で既に証悟済みであるが、新たな意識は未証のため、凡夫よりは速やかに再証するものの、阿罗汉に比べれば尚遅きがある。意根の無我の智慧は浅く、無明なお深く、意識への薫染は微弱で、意識の無明は重き故である。よって再び仏法に触れ、しばらく修習を経て再証する必要あるも、未証者に比べれば迅速である。修証の過程においては、意識の学習のみならず、意根の薫修が更に重要であることを事実は示す。後世においては意根が意識を薫染し牽引し、その後意識が新たな深法を学んで再び意根を薫染牽引する。両者が相互に薫染し合うことで、道業の進歩は急速となる。
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