衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年10月31日    水曜日     第2開示 合計976開示

《大乗顕識経》講義

原文:賢護、仏に白して言く。世尊よ、衆生は識あることを知れども、譬えば宝が篋の中に閉ざされて、顕れず知られざるが如し。世尊よ、この識のいかなる形状なるや、何を以て識と名づくやを知らず。衆生の死する時、手足乱れ動き、眼色変異し、制するに自由ならず。諸根喪滅し、諸大乖離す。識、身を遷して、何れの所へ去るや。自性如何なるや。何なる色相をなすや。如何にしてこの身を捨離し、更に余の身を受くや。

仏を学ぶ者は多いけれども、真に善業の大いなる者は極めて少なく、80パーセントあるいはそれ以上の者は三悪道に堕ちる。この一生において仏を学んだにもかかわらず、なお三悪道を免れない。なぜならば、彼がこの世でなした善業は非常に小さく、過去世と今世の悪業は多く重いからである。例えば、心に貪りがあり、貪欲と吝嗇の心が重ければ必ず餓鬼道に生まれる。また瞋恚と愚痴の業が重いと、一つは地獄に堕ちて報いを受け、一つは畜生となって報いを受ける。仏を学ぶ者の中では、これらの悪業の煩悩はほとんど除かれず降伏もされておらず、貪瞋痴の煩悩は三果を証得して初めて断じ始め、初果を証得した段階ではまだ断じることができず、しかし初果を証得した後は三縛結が断たれ、三悪道の業の係縛がなくなり、三悪道に生まれることはない。

或る者は言うかもしれない、仏典には五戒を守れば人身を得られるとあり、自分は五戒を守っているから、必ず人身を得られると。しかしこれは必ずしもそうとは限らない。第一に、自分が正しく判断できないため、実際に五戒を守れているかどうか分からないからである。第二に、仮に自分が本当に五戒を守っていたとしても、前世の悪縁が丁度熟しているならば、彼は悪縁に随って三悪道に生死流転しなければならず、選択の余地がない。五戒を守る功徳については、善縁が熟した時に初めて善報を受けるのである。天人も五戒を守り、欲界天・色界天・無色界天の天人たちは皆五戒を犯さず、いかなる悪業も造っていないが、彼らが死後、多くは直接地獄に堕ちる。これは地獄の悪縁が熟したことを示しており、避けられないのである。天人の福報が尽きると、地獄に堕ちる。なぜならば、彼らは無始劫以来の悪業の種子が依然として存在しており、善業の縁が小さく、まだ熟しておらず、勢力が十分でないならば、依然として悪道に堕ちるからである。衆生が臨終にどこに生まれるかは、どの引業の勢力が大きく、どの業縁が先に熟すかによる。

或る者は悪業を造作したが、誠心誠意清浄なる大願を発し、臨終時に善の願力が悪業の業力より大きければ、この大願力によって善道に生まれることもできる。したがって、仏を学ぶ者にとって初果を証得することは一刻の猶予もならないことである。もしこの世で初果を証得すれば、来世また初果を証得するか、あるいは二果を証得し、生々世々三悪道に堕ちて苦しむことはない。その後さらに三果・四果を証得し、煩悩を断除すれば、心は解脱し、慧は解脱する。三果は貪欲と瞋恚の二つの煩悩を断じることであり、初禅定に修める必要がある。初禅を証得するのはもちろんやや困難であるが、初禅以後は煩悩を断除することはそれほど困難ではなくなる。

しかし多くの者が自分は貪欲を断ったと言い、人間界の法に貪らず、人間界のあらゆる事柄に興味がないように感じているが、実際には微塵も断除されておらず、それは一種の降伏状態であって、断除状態ではない。なぜならば我見を断っておらず、初禅も証得しておらず、五蓋も修除されていないからであり、貪欲の煩悩を断除することは不可能である。また或る者は表面的には淫欲の行いがなくなったと言って、すでに淫欲の煩悩を断除したと言うが、実はそれは単に表面上の降伏と抑制に過ぎず、心理的には断たれておらず、中有においては依然として貪欲によって生を受けることになる。男女の欲によって生を受ける限り、次の世の色身があれば、貪欲は断たれていない。真に貪欲を断じ得た者は再び生を受けることはなく、初禅を証得した後の菩薩たちは例外である。

——生如法師の開示
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