衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2019年11月05日    火曜日     第1 回の開示 合計2012回の開示

なぜ実証はこれほど難しいのでしょうか

未到地定あるいは初禅定において、意識が一つの法義を如理に思惟する過程と結果を意根に伝える時、意根が仔細に思量して意識の認識を証明確認する場合、あるいは意根と意識が如理如実の結論を得ず結果がなく、意根が意識の提供した手掛かりを基に独自に思量参究し、最終的に事実に符合する結論を導き出すことを証と言う。意根の証は禅定を離れられず、禅定を離れれば意根は散乱攀縁し、専心して思量考究できず、実証が不可能となる。しかし意識の思惟理解は禅定有無を問わず、禅定に対する要求は高くない。なぜなら意識の慧力は意根を凌駕するからである。前期の意識による思惟観行過程では必ず現量観察を要し、現量性が強ければ強いほど意根への啓発が大きい。意根は多くの場合、意識が現量観察した法でさえ認知し難い。ましてや現量観察でない意識の非量想像や推論推測では、意根を認知させ同意させ得ない。意識の比量・非量思惟は意根への作用が小さく、意根は容易に認可信受しない。意根は意識の現量観察に依拠し、自らの思量性を発動させ、思量して明白になれば証得を認める。思量して明白にならなければ、依然として意識のみが単独で知るのである。

例えば意識は色身が年々急速に変化し、人が幼少期から瞬く間に成長し、再び瞬く間に青年期に至り、特に中年・晩年に至れば心境の関係で一層時日の過ぎ去る速さを覚え、自らの早過ぎる離世を恐れ、ひどく命を惜しむことを明らかに知っている。なぜ命を惜しみ時が速く過ぎることを恐れるか。全て色身が遅かれ早かれ滅び去り、永遠に老いず病まず死なずではない無常なることを知り、時として苦と感じるからである。しかし意識がこれを知っていても何の役に立つか。意根は一向に顧みず思量しない。故に生々世々の如く生死輪廻は必然的に免れ得ない。多くの事柄で意識の知るところは無益であり、意根は知らない。為すべきことは依然として為され、微塵も変化を生じない。

故に意根の証は極めて肝要である。彼は過去・現在・未来を連結する作主識であり、生死輪廻は彼が決定し、煩悩と無明を断つは彼が決定し、解脱は彼が決定し、成仏も彼が決定する。修行において意根より重要なものはない。第八識は意根より重要ではあるが、修行は第八識を修する必要なく、意根がなければ第八識は無為のまま、第八識のみ存在しても無益で、一切法の成就は全て意根の推進力に依る。故に意識が思考した法は必ず意根に薫染させ、意根に思量衡量取捨させ、意根にも法を証させねばならない。意識の所為に初めて功徳が生じ、結果が生じ、果報が生ずるのである。

——生如法師の開示
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