衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年11月04日    月曜日     第1 回の開示 合計2007回の開示

五蘊は第八識にあらず、小乗観行の結論ではありません

衆生は無始劫以来、不生不滅の第八識が五蘊の身中に常住することを知らないため、衆生には五蘊が即ち第八識であるという我見が存在しません。五蘊を観行して我見を断つ際には、五蘊と第八識を対比させて「五蘊は無常であり、第八識は常住である。五蘊は生滅するが、第八識は不生不滅である」と説く必要はなく、従って「五蘊は第八識ではない」と推論して五蘊が第八識の我であるという我見を断じるようなことはありません。このような対比と推論は根本的に不要であり、前提が存在しなければ後の結論も生じないのです。

仮に前提があったとしても、衆生が五蘊を第八識と見做すことは我見ではなく、むしろ我見のない無我の認識です。大乗の禅観によって第八識を証得する時、参禅する菩薩は五蘊が第八識から生じたものであり、第八識の一部であってまさに第八識そのものであることを悟ります。菩薩が初地に入った後、次第に一切の法が真如第八識であることを観察し、いわゆる一真法界を体得するに至れば、五蘊はさらに第八識であり、前提そのものが真如第八識であって一真法界の一部に過ぎません。もし衆生が無始劫以来、五蘊を第八識の我と見做す我見を持っていたならば、衆生は無始劫以来ずっと地上の菩薩であり唯識の種智を具えていたはずで、六道の生死輪廻があるはずがありません。

さらに仏が阿含経を説かれた際、まず弟子たちに「五蘊の身中に常住の法があり、不生不滅で衆生の五蘊が依拠する所である」と明かされました。弟子たちはこの教えを聞いて仏説を信受し、不滅の第八識が存在すること、五蘊が生滅無常であること、五蘊が決して常住の第八識ではないことを知りました。それ故に禅定による観行と思惟を修め、五蘊の無常・苦・空・無我を確認し、五蘊も六・七識も毀損しうるものであって、我も我所も存在しないことを悟る必要があったのです。よって我見を断じる観行の結論は「五蘊が第八識の我ではない」というものではなく、「五蘊は無常で壊れやすく苦の性質を持ち、我でも我所でもない」というところに至るのであります。

——生如法師の開示
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