衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
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日常法話

2018年10月29日    月曜日     第4開示 合計971開示

解悟と証悟の違い

理解と現観の差異について、解悟と証悟の間には大きな隔たりがある。証悟とは真実を体得したことであり、自ら眼前に自心の真如を観察でき、観察されるものはすべて事実であり、現量である。解悟はただ道理を理解したに過ぎず、如来蔵はそのようなものだと思い込んでいるだけで、自ら証得したわけではない。したがって、眼前に真如を観察することはできず、もし如実に眼前に行を観じることができなければ、真如の理体に転依することは到底できない。

両者の差異をより深く理解するため、比喩を用いて説明する。解悟とは、リンゴに関する様々な知識や理論を研究するようなものである。理論は極めて深く、あるいは非常に詳細に研究できるかもしれない。産地、品種、輸送、保存、外観、色彩や光沢などについても含まれる。しかし、結局のところ自ら口にしたことがないため、実際のリンゴの味がどういうものか、どれほど甘くて口当たりが良いかを知る由もなく、身心に真実の受用を得ることはない。証悟とは、すでに自らリンゴを口にし、リンゴの甘美な味を実際に知っていることである。リンゴに対する感覚は真実虚妄なく、身心はすでに利益を得ている。

しかし、このリンゴを食べた人が、まだリンゴの味を十分に表現できず、ましてやリンゴの産地などの様々な情報を知らない可能性もある。一方、解悟の人はリンゴに関するすべての理論を知っているかもしれないが、一口もリンゴを味わったことがない。そうすると、彼のすべての理論は単なる理論に過ぎず、自らの身心には実益を得ていない。あたかも釈迦世尊の最も鈍い弟子が四果の阿羅漢を証した後でも、解脱の道の法義を説くことができなかったようなものである。しかし彼はすでに真実の解脱を得て、真に生死を了解し、生死輪廻を離れ、未来にわずかな苦受も存在しなくなった。一方、現在の凡夫たちは理論が非常に盛んで、大言壮語するだけでなく著作は身の丈ほどもあり、言葉の表現はあたかも聖人のようである。しかし内心には一片の解脱の影もなく、話すときは聖人のようでも、行動するときは完全な凡夫であり、内心の貪瞋痴は少しも降伏されておらず、慢心が熾盛で、傍らにいる者は到底彼に近づこうとはしない。

理解と現観は二つの次元であり、その間の距離はおそらく非常に大きい。あたかも多くの人がリンゴの概念、内包、産地、品種を理解し、リンゴに関する論文さえ書けるが、口にしたことがないため、具体的な真実の味を知らないようなものである。一方、すでにリンゴを食べた人は、リンゴに関する多くの情報をまだ知らないかもしれないが、自らリンゴを享受し、実際にリンゴの甘く香り高い美味しさを味わうことができる。解悟と証悟の違いもまた、このようなものである。

仏在世の時、周利槃特は四果の阿羅漢であったが、解脱の道の法義を開示することはできなかった。一方、現在の凡夫は論文や書籍が無数にあるが、預流果の影さえもない。現在、仏法の理論を研究する人は非常に多く、数多くの道理を滔々と語ることができる。しかし結局のところ証得しておらず、ただ門の外でぐるぐる回っているだけである。あたかも靴の上から痒いところを掻くようなものであり、リンゴを研究する人々のように、リンゴを食べた人だけが正確にリンゴの味を言い表せるのである。解脱とは実証の境界であり、理解によって解決できるものではない。実証のある人こそが真実の利益を得ることができ、彼がそれを言葉に表せるかどうかは問題ではない。解脱は口先にあるのではなく、内心にあるのである。

理解と現観の現れる差異は極めて大きく、他人には分からない。理解した者は表現が非常に巧みで、他人は智慧が深いと思うかもしれないが、実はそうではない。証悟して明心した人は如来蔵を悟るが、それはすべて現観に基づいて語るものである。一方、解悟には想像の要素が含まれる。解悟は、むしろ一時的に悟らない方が良いかもしれず、因縁が熟してから証悟する方が良い。解悟した後の道は歩みにくく、非常に困難である。それは青い果実を摘むようなもので、熟していない果実を摘んで家で寝かせても、熟した果実ほど美味しくはない。

——生如法師の開示
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