第七識はあたかも何かを得たかのように見えます。世間の五欲六塵を得たように思えますが、実際には何も得ていません。愚痴と無明によって、強引に何かを得たと錯覚しているだけで、実は何も得ておらず、また得られるものもないのです。空しく苦労し、空しく計算し、心を砕きましたが、結果として一生涯、いや永劫にわたって空回りしただけです。
これらの内容は禅定の中で静かに思索し、長期間にわたって検証を重ねて初めて、自分が何も得られないことを悟ることができます。仏法を学び修行するとは、自らの無明を打破し、自分が無所得であることを認識し、その後は何も求めず、また何かを得ようとしなくなり、解脱して仏となることです。
究竟的に無所得であると悟れば、第七識は心空無為となります。しかし無為であってもなお、自他を利益するために行動しなければなりません。行動する際に心が空であるとは、何も求めず、個人の私利を考えず、個人的な目的や動機がなく、個人の得失や利益、成敗を考慮しないことです。このようにすれば、多くのことを行ってもあたかも何もしていないかの如く、自らに功績があると思わず、功績に驕ることなく、自惚れることもなく、他者や団体との利益交換を行うこともありません。不自私であることは不執着よりも遥かに容易です。まず自己の利益を求めないことを実践し、その後でようやく執着しない境地に至れます。個人の私利を考慮しなければ、徐々に無所得と無所求を実現できるのです。
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