意識だけの理解は解悟・開悟による如来蔵の証得であり、意識は必ず証得するが、意識だけの証得は真の証得とは言えず、意根も同時に証得しなければならない。意識だけが証得するのは解悟に過ぎない。もし意識だけが証得するなら、他人から「如来蔵とは何か、どこにあるか、どのような働きをするか」と教えられれば、それで悟りを開いたことになる。これで悟りを開いたと認めるなら、私たちは全ての衆生に如来蔵が何であり、どのような働きをするかを伝えることができる。そうすれば衆生が大乗仏法を修学する必要も、禅を参究する必要もなく、全ての衆生が直接悟りを開いて菩薩となる。そして各段階・各レベルの密意も直接衆生に伝えれば、全ての衆生は直接証得し、このようにして成仏は非常に早くなる。世尊はなぜこの方法を取らず、密義を明言することを禁じたのか。
全ての法は、まず意識が理解し証得し、その後で意根が理解し証得することができる。なぜなら意根の智慧は不十分であり、意識の思考能力に依存しなければならないからである。多くの法を意識は理解しているが、意根は理解しておらず、意根は理解し証得することが容易ではない。
現代人の意識は非常に聡明であり、容易に理を理解するが、意根の貪・瞋・痴の煩悩による覆いが深刻すぎて、強いコントラストを形成している。もし意識の理解に満足すれば問題が生じ、仏教はおそらくこのために急速に滅びるだろう。六祖壇経が現れる以前、仏教徒は皆実修し、禅定や参禅を修め、決して口先だけの禅(口頭禅)を弄することはなかった。壇経が現れて以後、方向性は転換し、大衆が集まれば皆が口頭禅を語るようになった。なぜなら壇経に書かれている内容を読むと、皆が禅法を理解したと思い込み、もはや苦労して参禅する必要も、修めるべきものもないと考え、ただ集まって侃々諤々と語り合うだけで、実際の修行がなくなったからである。現代人はなおさらこのような状態である。
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