原文:賢護が仏に申し上げた。世尊よ。衆生は識があることを知ってはいるが、ちょうど宝が箱の中に閉じ込められたように、顕現せず知ることができない。世尊よ。この識はどのような形状をしているのか。なぜ識というのか。衆生が死ぬ時、手足が乱れ動き、眼の色が変わり、制御できなくなる。諸根は喪滅し、諸大は乖離する。識は身体から遷り、どこへ去るのか。自性はどのようなものか。どのような色相か。どうしてこの身を捨てて、さらに他の身を受けるのか。
「眼の色が変わり、制御できなくなる」とは、眼球が濁るのは、眼識が徐々に身体から離れていくためであり、この時阿頼耶識と意根も続々と離れようとしている。彼がもう一度自分の家族や親族を見ようとしても見えなくなり、眼識は自らの意思では制御できず消えてしまうが、この時彼の意識心は消えておらず、まだ知覚がある。この時視覚は次第にぼやけ始め、最後には全く見えなくなり、耳も音が聞こえなくなり、これらの機能は徐々に滅していく。彼は自分が死ぬことを知っているが、全くどうすることもできない。
彼の意根は本来なら制御できるはずなのに、この時なぜ制御できなくなるのか。意根はこれまでずっと「私はこうしたい」「私はあれはしたくない」と主張し、これを支配しあれを制御してきたが、この時はどうしようもなくなる。これを随業流転(業に従って流転する)といい、死の業縁が現れると、意根は全く制御不能になる。制御できるものは何か。実は業力である。この業はどこから来るのか。阿頼耶識が集蔵した五蘊(五陰)による造業の業種が、再び送り出されて現行するのである。つまり、実際に最終的に制御するのは阿頼耶識であり、それは業力の種子に基づいてどのような五蘊を生じるかによって、衆生はそのような五蘊を持つことになる。だからこそ、阿頼耶識が主人公なのである。
意根は単なる偽りの表面上の主人公に過ぎず、それは些細なことに対してのみ制御でき、本当に制御が必要な時には制御できない。臨終の時、意根は死にたくないと思っていても、それでも死ななければならない。悪報を受ける時、それを受けたくないと思っても、それでも悪報を受けなければならず、これらに対して意根は全く手の施しようがない。しかし、五陰身が業を造るのは意根が制御し決定するのであり、それは意根の無明によるものであり、果報は最終的には意根によって決定される。
「諸根は喪滅し、諸大は乖離する」。色身が死んだ後、眼根はもはや作用せず、阿頼耶識は眼根を通じて色塵を変えることができない。この時、内色塵もなくなり、眼識は生じ続けることができなくなる。根と塵が接触して識が生じるが、前の浮塵根(感覚器官)が機能しなくなり、後頭部の勝義根(微細な感覚器官)も機能しなくなる。外の色塵はまだ入って来られるか? 入って来られない。なぜなら根が伝導作用を果たせないからである。
内色塵がなければ眼識はなく、それゆえ彼は人を見ることができない。耳根も同様で、耳根もまた壊滅する。耳の形はそこにあるが、伝達神経はすでに機能せず作用しなくなり、音は伝わってこない。耳根が壊れると声塵も消え、音はもはや勝義根に伝わって内声塵を現出させることができず、耳識は徐々に消えていく。彼が聞く音はますますかすかに、ますますかすかになり、ついには聞こえなくなる。鼻根も伝導作用を果たせず、香塵が伝わってこないため、鼻識は次第に消える。舌識も同じ理屈で、次第に身根も作用しなくなり、第八識はもはや触塵を伝導せず、触塵がなければ身識も次第に作用しなくなり、全身は徐々に感覚を失う。
意根はこの時どのような状態か。意根もこの時はどうしようもなく、心でははっきりとこの身体は使えなくなったと分かっているが、まだ支え続ける。なぜなら意識心がまだ滅していないからである。意識心も滅する時が来ると、意根はもう全く望みがないと感じ、身体から撤退する。阿頼耶識もそれに従って離れ、単独で色身を保持することはできなくなる。阿頼耶識は最後に離れる。実際には最後に離れるのではなく、意根と同時に去るのである。もし意根がいなければ、阿頼耶識は即座に身体を保持できず、色身の中に留まれない。もし阿頼耶識が先に去れば、意根も存在できず滅びなければならない。阿頼耶識は先に去ることも、最後に行くこともできず、必ず意根と同時に去らなければならない。
1
+1