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日常法話

2019年09月16日    月曜日     第1開示 合計1917開示

意根は如来蔵 (tathāgatagarbha) を黙容できるか

問:意根は一切法を黙容し、如来蔵を黙容することも含まれます。如来蔵は一切法に対して自ら主となることがなく、我性を持たず、必ず意根と共に運作し、意根と密接不可分です。意根は心王であり、如来蔵は意根の心所であると言えるでしょうか?

答:意根は確かに一切法を黙容しますが、この一切法には如来蔵は含まれません。なぜなら、意根は如来蔵の存在を知らず、如来蔵が具体的にどのような働きを持つのかも知らないからです。意根が黙容しているのは、如来蔵が生じさせたそれらの功能作用であり、如来蔵が生じさせたそれらの作用を好み、執着していますが、これらの功能作用がすべて如来蔵のものであることを知らず、すべて自分自身の功能作用だと誤認するからこそ、絶えず執着と貪愛を続けているのです。

もし意根が如来蔵を黙容できるならば、神様は如来蔵の運作を知り、五蘊世間法がすべて如来蔵によって運作されたものであり、自分には何の関わりもないことを知るはずです。そうであれば、意根は我見を断じることができ、我執と法執も断除でき、その心の中の無明もすべて破除できるはずです。しかし事実はそうではありません。それゆえ、意根は如来蔵を黙容するのではなく、如来蔵が生じさせた功能作用を黙容するのであり、それらの作用を自分の功能作用だと誤認することを、「内において如来蔵の功能を我と執する」と言います。それゆえこそ、意根は我慢・我愛・我執など数多くの煩悩を生じさせ、無明が深重なのです。

如来蔵には作主性がなく、自ら進んで一切法を主宰することはなく、常に意根に随順して一切法を運行しており、意根から離れることができません。しかし、如来蔵は意根の所有に帰するものではなく、意根の心所ではありません。意根は如来蔵の心王ではなく、まさにその逆で、如来蔵こそが心王であり、意根は心所なのです。なぜなら、如来蔵は意根の存在の有無を決定し、意根に生存の種子を提供するからです。それゆえ、如来蔵は意根の心王であり、意根は如来蔵の心所なのです。他方から言えば、如来蔵は常に意根に随順できるわけではなく、多くの場合、如来蔵は業種に随順します。意根の多くの願望と求めは、如来蔵には満たすことができませんが、如来蔵は永遠に絶えず業種を輸出し、業種に随順することができるのです。それゆえ、意根には如来蔵の心王となることはできず、如来蔵は意根の心所となることはできず、意根の所有に帰することはないのです。

——生如法師の開示
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