今朝の早課では、師尊の教示に従い、「定中(じょうちゅう)で法義を思惟できるよう訓練し、意根の中に懸けておく」こととした。
まず深呼吸を数回行い、体の濁った息を吐き尽くすとともに、新鮮な空気を全身に満たす。鼻腔、喉、胸腔から気海(丹田)まで届かせ、ひと呼吸置いてから、足首、足裏の湧泉穴まで押し下げると、心は空霊で、柔らかく、のびやかになる。
次に静坐して念仏(buddhānusmṛti)し、音声をもって仏事を行い、胸や腹、とりわけ頭脳のさまざまな細胞を震わせ、経絡を疏通し、汚れを排出して染汚を清める働きをさせる。念仏によって頭部の気脈を貫通させ、足裏の気脈を頭部へと引き上げ、「南水北調の給水工事」のようなシステムを形成し、しかも滞りなく通じて、南北の大動脈を貫くという目標の達成を期す。
さらに、静坐して拝仏し、任督二脈をほぐすと、心はすでに空澄で、安寧となっていた。
そこで、『楞厳経』の中で最も理解し難い第四巻の法義、富楼那が提起した「一切根塵陰処界等。皆如来蔵。清浄本然。云何忽生山河大地」という問題について、第四巻を軽く読んでみた。定力があったので、読むそばから入っていき、心が経文に集中でき、文に随って観じ入ることで解を得た。
関連する法義を整理した後、意根に反芻させる。時には、意根が一つの念を投げ出し、意識がそれを受け取る。おお、これは『大般若波羅蜜多経』の法義だ、すぐに『楞厳経』の法義と接続し、解けないところは、湯が氷を溶かすように解けていく。
もともと、意識が法義を思惟しているとき、意根もその中で忙しく働いており、絶えず黙って意識と契合している。これは定境の专注した状態のもとでの、双方のシームレスな接続である。
もし普段からこれらの法義に疑情があれば、意根はその中で働き続けており、静坐して法義を思惟する時に、意根は一気に準備しておいた法義を送り出してくる。意識は受け取りながら、喜んで言う。「兄弟よ、兄弟よ、まさにその通りだ」。まだ意根の中に懸け始めてもいないのに、意根は堤を決いて溢れ出してくる。
———兄弟よ、長いこと君を待っていたぞ。
だから、普段の念茲在茲(ねんじざいじ)とは、意識と意根の「公は婆と離れず、秤は分銅と離れず」という協力関係なのである。実のところ、これこそが動中の定力(じょうりょく)である。『大勢至法王子念仏円通章』の憶仏念仏も、私たちの普段の念茲在茲も同じであり、最後には、もちろん必ず仏を見、あるいは必ず心開き意解し、豁然と開けるのである。
今朝の早課では、意根が法義を思惟したので、すぐに問題が解決し、また一時間あまり定に入った。
まさに、定中の一日は、世上ではすでに千年のごとしである。
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