衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年09月04日    水曜日     第1 回の開示 合計1896回の開示

観音耳根円通法門はなぜ修行が難しいのですか?

問):観音耳根円通の法門において、禅定の中で一切の法を空じ、最終的に空じきれない空寂の状態に入る、これが真実の心であるとされます。真実の心がすでに空寂であるならば、どうして一瞬の閃きで空寂心を悟ることができるのでしょうか。

答):『楞厳経』において観世音菩薩が修めた観音耳根円通の法門は、禅定の中で空性を観じ、絶えず虚妄の法を破る修行です。この修行法は極めて深い禅定と強力な般若の智慧を必要とし、どちらか一方が欠けても成就できません。この方法では、禅定の中で生滅する虚妄の法を排除し続け、ついには排除しきれない実在的なもの、すなわち真実の心である如来蔵が残ります。

この修行法は優れていますが、ほとんどの人、あるいは全ての人がこの境地に至ることは困難です。深い禅定と般若空性の智慧が不足しているため、定中でこの空性心を証得できないからです。証得できない場合、般若空性に対する誤解は甚だ大きくなります。この娑婆世界の衆生の善根では成就できず、般若智慧は似たような理解は可能でも、禅定は実践的な修行の指標であり、理解だけでは達成できません。

禅定の中で一切の虚妄法を排除することは凡人には不可能です。人我と法我を共に空じ、排除した後に残る空じきれない空寂の真実心——現在この境地に至る者は存在しません。最後に残る空寂心を以て空性を証得します。では、誰がこの空寂心を証得するのでしょうか。空寂の真実心を認識する主体は何か。その「誰か」が必要でありながら、その「誰か」自体も空であり、排除されるべき存在です。しかしこの「誰か」を利用して、本来備わる空寂の心体である如来蔵を発見するのです。この修行は虚妄法を破棄するものであり、虚妄の意識意根を用いて破れない真実心を証得します。虚妄の意識意根なくしては明心証悟は得られません。

では、なぜ悟りが必要なのでしょうか。迷いと無明があるからです。この「私たち」とは何を指すのか。それは意識と意根という二つの心です。この二つが迷い、無明のまま真実の法界実相を悟らず、真実の自己である阿頼耶識如来蔵(第八識)を知らないため、意識と意根が修行を通じて真実の我を悟り、一切法の虚妄を証得し、無明を断じ尽くす必要があるのです。第八識を証得して初めて、三阿僧祇劫の修行を通じて無明を断じ尽くせます。第六・七識が迷いを続け、本来の自己である第八識を証得しなければ、無明は断じ切れません。

悟りを開くべきは第六・七識です。彼らが第八識を証得する必要があります。禅定中の観行を通じ、般若空寂心の性質を理解し、観行の智慧を得て、第八識如来蔵の体性を明らかにし、空寂の心を観照するのです。

空寂の心とは、その本体が形なく相なく、目に見えず、耳に聞こえず、触れることも感じることもできない存在です。般若経典を学び、真実心の体性と五陰身における作用を理解し、禅定の中で五陰身の運行を参究して第八識を証得します。

如来蔵の本体は発見できません。空寂の心は相貌を持たないからです。その功能作用を通じてのみ証得可能です。五陰身の運行において、第八識の行相(作用の現れ)を観察します。第八識は五陰身をどのように運行させるか——これを観じた時、第八識を証得するのです。第八識の本体は空寂でも、その作用は空寂ではなく、観照可能な行相を示します。

『細説如来蔵』で風を例えに挙げたように、空寂の心は風のように不可視ですが、存在は認識できます。風も空であり、目に見えず感じられなくとも、物体への作用を通じてその存在を知るのです。同様に、如来蔵は五陰身への作用を通じて発見されます。風を認識するのが第六・七識であるように、第八識も彼らが共同で証得します。第八識は一切の法を生起維持する作用を持ち、その運行の相を参究する中で、六祖の説く「五つの何期自性」が明らかとなるのです。

——生如法師の開示
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