衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年10月27日    土曜日     第1開示 合計960開示

知解宗徒とはいかなる人であるか

現代社会は情報が発達し、経典を入手することは容易で、意識的な理解力も強く、人が五蘊の生滅は無常で無我だと説くと、50%の人は意識的に五蘊が無我であることを理解し、色身が真実ではなく幻化した偽りの殻であると知ります。仏教を学ばない人でさえ、口では「色身は偽りの殻、汚れた袋で、生滅無常のものだ」とよく言いますが、言うのは言うだけで、誰一人として身見を断ち我見を断っておらず、皆依然として深刻な我執を持っています。

もし意識が五蘊無我を理解しただけで我見を断ったと思うなら、証果はあまりにも簡単なことになります。仏教を学ぶ者の半数以上が三つの束縛(三結)を断ち切り、三悪道の苦しみから免れ、聖賢となることができるなら、仏教に何の憂いがあろうか、衆生にも何の心配もなく、釈迦仏は安心してこの娑婆世界を見守り、仏教が滅びることを心配する必要はないはずです。しかし、実際はそうではありません。

単に意識で無我を理解しただけで、自分は我見を断ったと思い込み、さらに煩悩が軽微で、すでに二果(一来)に修めたと思っている人々は、臨命終の時に非常に厄介なことになり、来世は非常に苦しむことになります。最善策は、今生の残りの時間で、いかに補うかを考え、いくつかの効果的で実行可能な措置を取り、改めて五蘊を仔細に観行して真に我見を断ち切り、妄語の大罪を消滅させることです。

現在の仏教界では、いったいどれほどの二果の人がいるのか、まるで聖賢が輩出する時代のようですが、実際はどうでしょうか。実に乱れきっています。もし三果(不還)に初禅定が関門としてなく、欲心を断つという明確な指標がなければ、自分は三果を証得したと言い出す者がどれほど出てくるか分かりません。今でも、三果や四果(阿羅漢)を証得するのに初禅定は不要で、初地菩薩や二地菩薩は以前から初禅定を修める必要がないと宣伝する人がいます。このような宣伝が何を暗示しているかは想像に難くありません。このままでは、凡夫と聖人の境界はなくなり、仏法を少し理解しただけで聖人となり、これらのいわゆる聖人たちは実は皆、知解宗徒(理屈だけの修行者)に過ぎないのです。

——生如法師の開示
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意識の力のみでは我見を断つことはできません

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