催眠状態において、意根は完全に催眠師の指示に従う。催眠師が何を言おうと、意根はそれを信じ受け入れ、命じられたことをそのまま実行し、完全に操り人形のようになる。意識は麻痺し、参謀としての役割を失い、意根の人形と化す。覚醒後、意識は催眠中に自らが何をしたかを全く知らない。まるでアルコールの麻酔状態で、自らが何をし何を語ったかを覚醒後に全く記憶していないかのようだ。アルコールが麻酔するのは意識であり、意根は正常に機能する。この時意識の作用は微弱で、意根を牽制する力がなく、完全に意根に従順となる。酔った時に約束した事柄は、覚めれば忘れ、決して承認しない。
夢遊病の現象も催眠状態とほぼ同様で、意根は清明だが意識は混濁し、意根の操り人形となって完全にその指揮に従い、自主性を失う。意根が自らの習性に従って東西南北を彷徨い、意識はそれに従順に従う。夢遊が終了した後、意識は全く気付かず、睡眠中に自らが何をしたかを知らない。
かつて私は、催眠法を利用して修行者に我見を断じ悟りを開かせようと考えたことがあるが、今思えば実に可笑しく無謀な発想であった。催眠状態では、たとえ意根が導きに従い五陰無我を承認し、十八界の無我不実を認めたとしても、意識が清明でない限り、覚醒後は五陰十八界の無我を知らず、我見を断ずる証果を得ていない。それでは我見を断じたことにはならない。所謂「隔陰の謎」とは、まさに意根は知るが意識は知らぬ状態を指す。催眠状態で我見を断じても、覚醒時は隔陰の謎と同様で、意識が我見を断じていなければ、それは我見を断じていないに等しい。故に我見を断じ真実を悟るには、意識と意根が共に理を明らかにし、共に証悟する必要がある。一方が欠けても、その心の働きは完全とは言えない。
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