僧侶の戒律に「一坐食」という規定があります。食事の際は一度に盛り付けを済ませ、座ったままで完食する必要があります。食べ終わったら直ちに起立して退出します。途中で立ち上がって追加の食事を求めたり、歩き回ってから再び食事を続けることは許されず、身体が起立した時点で食事終了と見なされます。仏在世の僧侶は日中一食を実践しました。托鉢は時間を浪費するため、一日一食は修行時間を多く確保できるからです。もし一日に二度三度と托鉢すれば、多くの時間を浪費するだけでなく、世人や外道から「僧侶は食事ばかり貪り修行しない」と誹謗される要因となります。第三に、過食は消化器官を頻繁に働かせ心の清浄を妨げ修行の障害となる上、福徳を消耗し道業の向上を阻みます。これらの要因を総合し、僧団は日中一食の戒律を制定したのです。
僧侶が托鉢するのは、同時に衆生に福田を植える機会を提供し、福を修め解脱を得る契機を与えるためです。衆生が布施を多く行えば行うほど、福徳は増大し解脱の可能性も高まります。僧侶が托鉢するからといって衆生が貧しくなるのではなく、逆に衆生はますます富貴になります。僧侶が毎日一度托鉢するからといって仏教が衰退するわけでもありません。仏教の滅亡には多くの要因がありますが、主に衆生の善根福徳が薄れ、仏法に遇う福のない衆生が増え、さらに魔波旬による仏教破壊が加わるため、仏教は必然的に衰退して滅びるのです。衆生が僧侶に布施することを仏制は拒むことを許さず、衆生に福を植えさせるように定めています。さもなければ衆生は福徳を得られず、永遠に六道を流転し貧窮に苦しむことになります。自らが福田を植える機会を得られることは、仏陀と僧侶、三宝に感謝すべきことです。そうでなければ、いつの日か解脱を得られるでしょうか。
経典に説かれるように、仏陀を供養する功徳は計り知れません。特に仏陀が成道直後の最初の食事と涅槃直前の最後の食事を供養する機会を得た者は、最速で仏果を得て他者を超越します。仏陀成道後の最初の食事は牧牛女が供養した乳粥であり、涅槃直前の最後の食事は鍛冶屋のチュンダが供養したものです。当時、世尊に最後の食事を供養したいと懇願する者が多数いましたが、仏陀は全てお許しになりませんでした。チュンダが供養を申し出た時、初めて仏陀は頷かれました。そして仏陀はチュンダの成仏を授記されました。これは仏陀が前世でチュンダに約束されていた、涅槃直前の最後の食事を供養する因縁によるものです。このように仏陀と三宝を供養する機縁を得る福徳は、測りしれないものであることが分かります。
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