凡夫の見が仏と同じであれば、凡夫は仏となる。凡夫の見が四果阿羅漢と同じであれば、凡夫は四果阿羅漢となる。凡夫の見が三果人と同じであれば、凡夫は三果人となり、凡夫の見が二果人と同じであれば、凡夫は二果人となり、凡夫の見が初果人と同じであれば、凡夫は初果人となり、凡夫の見が初果向と同じであれば、凡夫は初果向となり、我見を断つに至る。
凡夫の見が明心の菩薩と同じであれば、凡夫は明心して悟りを開く。凡夫の見が初地菩薩と同じであれば、凡夫は初地菩薩となり、二地菩薩の見と同じであれば、凡夫は二地菩薩となる。凡夫が等覚菩薩の見と同じであれば、凡夫は等覚菩薩となる。
見るところに応じて行じるが、見が究竟でなければ、行も究竟とならない。初果から四果に至るまで、智慧の見解は全く異なり、行いも異なり、行為の造作も異なり、身口意の行いも異なる。誰が初果人の見地と四果人の見地が同じであると言えようか。誰が明心したばかりの菩薩の見地が等覚や仏の見地と同じであると言えようか。見地の違いによって智慧が異なり、無明が異なり、言行が異なり、身口意の行いが異なるため、果位も異なるのである。
初果人は見が十分に透徹していないため、引き続き四聖諦を修学し、五蘊十八界の無我性を観行する必要がある。智慧がさらに増進すれば、二果となる。さらに修行を続け、智慧を増長させ、見地がより透徹し、禅定が生じ、智慧が増進して煩悩を断じれば、三果となる。さらに観行を続け、見地が一層透徹し、煩悩が断じ尽くされれば、四果阿羅漢となる。
大乗法もまた同様であり、全ては見地の違いによって智慧に差異が生じ、煩悩無明に差異が生じ、行いにも差異が生ずるのである。
思惑とは、知見が正しくないために思想上に煩悩の惑いが生じることをいう。もし知見が完全に正しく、仏と同じ正しさであれば、いかなる思惑もなく、いかなる煩悩習気や無明も存在しない。故に思惑が断たれないのは、見が透徹していない結果である。
見地の違いが思惑の違いを招く。同じ果位の間においても、見地が異なれば行いも異なり、思惑も異なり、次の果位に至るまでの修行期間も異なる。もし見地が全て同じであれば、論争や争いも存在しないのである。
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