衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年08月28日    水曜日     第1開示 合計1874開示

現量と非量

縄を見て蛇と見るのは、非量でしょうか、それとも比量でしょうか。正しく縄を了別していないばかりでなく、蛇を如実に認識してもいないので、どちらも錯誤した了別であり、事実ではないので非量なのです。驢馬に乗りながら驢馬を探すというのは、何の量でしょうか。自分が乗っている驢馬を認識できず、驢馬を驢馬と見なさず、さらに別の驢馬を探しに行くというのは、驢馬を正しく認識できないのですから非量です。自分の五陰の身は全体が第八識であるのに、自分ではそれを理解せず、さらに別に第八識を探そうとするのは、何の量でしょうか。同じく非量です。凡夫は父母を見て父母と認め、児孫を見て児孫と呼びますが、これも現量ではなく非量です。それゆえ、佛陀は阿闍世王に、その父という人が存在せず、殺父という事柄も存在しないと観行するよう教え、五蘊が空で無我であることを証させ、非量の認知を滅除して現量の中に立ち返らせたのです。そうしてはじめて殺父の罪業を滅除できるのです。

阿羅漢が証得した五陰は非我にして我に異ならず、生滅変異して空であるというのは、何の量でしょうか。阿羅漢が証得した五蘊空無我は、現量ではありますが半分の現量であり、まだ究竟ではありません。それゆえ、さらに大乗法を修学し、究竟の法を証得する必要があるのです。菩薩たちが第八識を証得した後、さまざまな階層の智慧を獲得したというのは、何の量でしょうか。阿羅漢と菩薩が証得した法は、いずれも現量証ではありますが、いずれも相対的な現量であって、完全に現量というわけではなく、まだ非量の成分が残っているのです。

観自在菩薩が照見して五蘊皆空を見るというのは、何の量でしょうか。もし観自在菩薩の照見した五蘊皆空が完全に現量であるなら、修行はすでに極点に達しており、成仏しており、さらに修行を継続する必要はなくなります。等覚・妙覚の菩薩が証得した法でさえまだ究竟ではないのですから、最後の一品の無明をさらに破除してこそ完全に成仏でき、無明を破り尽くしてはじめて完全な現量の智慧となるのです。

厳密に言えば、佛陀の智慧による認知だけが完全な現量の智慧であり、究竟で疑いの余地がなく、現実と真理に完全に適合しているのです。それ以外の菩薩たちの智慧による認知には、さまざまな現量の成分があり、まだ究竟ではありません。阿羅漢や辟支仏たちの智慧による認知は、菩薩よりもさらに究竟ではなく、空の程度・階層も十分ではありません。凡夫は完全に非量であって、現量がありません。たとえ山を見て山とし、水を見て水とし、父母を見て父母とし、冤家を見て冤家として、少しも錯乱していなくても、それらはすべて非量であり、迷惑顛倒なのです。非量の認知は、精神錯乱の認知に相当します。衆生はみな程度の差こそあれ精神病を抱えており、いずれも健康ではないのです。

——生如法師の開示
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意根は瞋の韻味を貪着しない

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このように類推する類比は比量ではない

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