衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年08月09日    金曜日     第5開示 合計1798開示

如理に修行する時、心は転じ始めるものです。

仏法を学ぶことで、次第に五蘊無我の理を認識するようになり、真理の智慧という陽光に照らされることで、心の中の堅い氷が少しずつ溶け、最後には消滅します。この段階には長い時間を要し、厳密には五蘊無我を証得した時から始まりますが、厳密でない言い方をすれば、四聖諦の法に触れ、理にかなった観行ができるようになった時から始まっているのです。

まず五蘊無我を証得しなければならず、その後で徐々に我執を破ることができます。これが修行の次第です。五蘊無我を証得する程度が異なれば、意根の執着の度合いも異なり、我見を断った後は、意根の五蘊に対する執着は次第に軽くなり、ある程度まで軽くなって初めて、我執は即座に断たれるのです。凡夫衆生や初果の人の意根の執着は非常に強く、一度に断ち切られるものではなく、少しずつ軽減されていきます。長年積もった堅い氷が、陽光に照らされてまず少しずつ溶け、最後には消えてなくなるのと同じです。意根が執着を断つ過程もこれと同様に、まず軽減され、最後には消滅するのです。

これらの法は、禅定がなければ適切な思惟観行ができず、理解することが不可能で、法に相応することができず、必然的に興味が持てません。意識による理解さえもままならない状態では、ましてや実証など論じる余地はありません。

禅定が不足している時、あらゆる思惟は意識の解釈にしか至らず、実証には至りません。もし自身が意識の解釈を究竟のものだと思い込めば、実証は不可能となります。ですから、時に知識や解釈が多いことも良いこととは限りません。禅宗の祖師たちは、参禅者が知識や解釈に溺れることを最も戒め、それが悟りの大きな障害となると説いています。しかし現代人は、ほぼ100%の人が知識や解釈の多さを追求し、知ることが多いことを誇りとしています。だからこそ今、実証を得る者はごくわずかである一方、知解宗徒は至る所に溢れ、仏法が一旦氾濫すれば、必ず急速に滅びてしまうのです。

——生如法師の開示
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あらゆる法の生起には意根という縁が必要である

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