法身を活かすためには、五蘊を我とする邪念を滅し、五蘊の我を立てなければ、法身は容易に発見されます。しかし法身を求める過程において参究の念が生じ、世俗の貪瞋痴の念を抑伏するよう努力すれば、やがて法身を照見する時が訪れましょう。
ただし参究の過程を経ていない悟りが真の悟道と認められるか、その結果如何については、仏ですら裁定できず、因果と閻魔の審判に委ねられます。死を司る者が最も雄弁な証人であり、その権能は絶大です。もし己が証果明心の者たることを強く望み、聖人たらんと願いながら事実の真相を顧みぬなら、これは依然として深刻な我執であり、「我はかくあるべき」との妄執が我そのものなのです。真に我見を断じて無我を証得し、五蘊の空を悟ったなら、解脱の心を充分に顕現すべきであり、自らの果位が如何なるものであれ重要ではなく、無我ならば果もまた無く、我あるが故に果が生ずるのです。
或る者は言うでしょう。我見を断つことと明心は共に初果であり、初果は煩悩を断たず、その煩悩は凡夫と同様で解脱の功徳無しと。では我見を断つことと断たぬことの差異は何か。初果を証しても解脱の功徳受用は微塵も無く、如来蔵を明心しても凡夫と変わらぬなら、何をもって果徳と為すのか。一切の果には徳が伴うべきであり、証果後に果徳無きなら、それは単なる名称・名相に過ぎず、何らの意義もありません。この名称たとえ仏の与えたるものなりとも、本来不生不滅のものにあらず、故に実質的意義を有しません。ただし実証と妄語には、それぞれ因果が伴うのです。
真に修道を始める時点で既に一定の功徳受用があり、三十七道品を修する過程においても程度の差こそあれ功徳受用があります。ただその時点では解脱の功徳受用は無く、我見を断たぬ故に解脱無きのです。しかし我見を断じ明心して後は、初果には初果の解脱徳、二果には二果の解脱徳、三果三果の解脱徳、四果四果の解脱徳と、段階に応じた解脱功徳が生じます。煩悩を断つのは三果以降のことながら、初果人の煩悩は凡夫と大きく異なり、学仏者が修道過程にある者と未修道者との煩悩にも一定の差異があります。さもなくば仏道修行に何の意義があるでしょう。
多くの人々が果を好むのは何故か。事実を重んじずして果を求めるのは、深刻な我執と我見が作用しているからです。たとえ仏が特別に果を授けたとしても、自らの徳がその果に相応しなければ、実際には証果していないにも拘わらず、この果に執着し固執するのは依然として我見我執であり、偽りの果を得て歓喜し、広く宣伝し威張り散らすのは、我執の顕現に他ならず、生死を出でず、自欺欺人というべきです。
真の修行者は、如何なる果にも拘らず、内心の変化と真の解脱、修行による功徳受用を重んずべきです。真に功徳受用あれば、たとえ仏が証明せず、誰も証果を認めぬとも、実際には自ら果と解脱の証量を具え、解脱を得るのです。逆に功徳受用なく真の解脱証量なき者は、たとえ仏が証明し、全ての人が恭敬して大徳阿羅漢菩薩と崇めても、実際には依然として凡夫であり、生死業障の中に在るのです。
仏道を学ぶ者が求めるべきは真の解脱と道業であり、虚栄ではありません。虚栄は頼りにならず、もたらすものも虚栄、あたかもシャボン玉の如し。泡影の美しさに惑わされず、実相を求め真実を得るべきです。言葉で言うは易くも、実践は困難です。証果を求める潮流が過ぎ去った後、仏教界は初めて実務に入るでしょう。今は猛烈に果と栄誉を求める時代、真の修行者に遇うことは稀です。華やかさが褪せた時、真実は初めて顕現するのです。
2
+1