衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年10月02日    火曜日     第4開示 合計865開示

参禅の修行方法は尋と伺であります

参禅の初期の修行方法は「尋(じん)」を用いることです。尋とは、意識心がやや粗雑に第八識という目標を探し求めることで、定力が十分に深まっていないため、慧力も十分に大きくならないのです。定力が向上し、意識心も非常に深く微細になった時、参禅は「伺(し)」へと移行できます。伺とは、猫が獲物を見つけて、その場を動かずに獲物が現れるのを待つようなものです。意識心が第八識の出現するおおよその目標を捉えたため、非常に深く微細な観行が可能となり、心の動きがほとんど止まる状態です。この段階の参禅では方向性が生まれ、第八識如来蔵がおおよそどこに現れるかを知り、意識心が猫が鼠を待つように静かに観察し、深く微細に思惟観行できるようになります。こうなれば悟りは遠くありません。

参禅という修行法は、真の心(真心)と妄りの心(妄心)が和合して初めて行えるもので、真妄二心が同時に作用しなければなりません。その中で、真心である第八識自体は思惟活動を行うことができず、法塵を分別できず、直接参禅活動を行うことはできません。妄心である意識は一切の法を思惟し、六塵を了別でき、直接参禅も行えるため、やはり意識心を主体として参禅活動が行われます。なぜなら、意識心は法塵に対応し、法塵を分別でき、その分別思惟は非常に深く微細になり得、了知性が非常に強く、一切の心理活動は意識心を主体とするため、参禅も例外ではないからです。

参禅とはいわゆる「思惟修(しゆいしゅ)」であり、「参究(さんぎゅう)」とも呼ばれます。意識による参禅は思惟を離れることはできませんが、空想にふけること(情思意解)ではなく、過度の分析も、憶測もあってはなりません。定力が十分に備わった状態で深く微細に参究する必要があり、それは深層レベルの思惟であり、すでに意根(第七末那識)にまで深く入り込んでいます。この種の思惟は非常に深く微細で、思考の動きはほとんど止まり、待機状態に近いものです。まずは目標を探し求め、第八識が現れる目標を見つけた後は、猫が鼠を待つように、ただそれを捉えるのを待つのです。この時も受動的に待っているわけではなく、内面では深層レベルの思惟参究活動が密かに続けられており、虚妄の法の背後で真心が作用する痕跡を、非常に密やかに、細心に探求しているのです。

参禅の最初の段階は「尋」、すなわち探求であり、最後が「伺」、つまり待機であり、思考は深くゆっくりと動きます。参禅には意識心を離れなければならないと言う人もいますが、意識心を離れてしまえば思惟は成り立ちません。意識心を離れるとは意識心を滅することであり、意識心がなくなれば、それは無想定の状態か、眠って夢のない状態にいることで、意識心がなければ参禅はできません。二禅以上の意識心はあまりに微細すぎて、参禅には適しません。参禅に適した定の境地を適切に保つことで、最良の参禅状態に入ることができ、最終的に明心または見性に至ることができるのです。

——生如法師の開示
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