衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2018年10月02日    火曜日     第5 回の開示 合計866回の開示

精思は参禅と止観と等価である

世俗法において「精思は神に入るべし」という言葉があります。精思とは深く細やかな思惟のことで、これによって止(サマタ)と観(ヴィパッサナー)を得ることができます。これは観から止に入る道です。止からさらに深い観を開くこともでき、止観は相互に均衡を保ち助け合います。経典を読む際には、一つの句や教理を深くゆっくりと思考し、全ての注意力をその句に集中させることで、定力を引き出します。この定力を借りて観行思惟を極めて精緻に行えば、未到地定に入ることができ、さらに有覚有観の初禅や有覚無観の初禅から二禅の定に入り、やがて有覚無観の覚を滅して二禅に入ることができるのです。

観行、つまり法義を深く細やかに思惟することは、速やかに定に入る道であり、定力の向上も速く、真理の理解も早まります。思惟定中では身心ともに愉悦を覚え、精力が充実します。定力を高めたいなら、妨げのない時を見つけて一、二時間観行思惟すれば、定慧が同時に生じ身心安穏であることを実感できるでしょう。どうしても定を修められず深細な観行ができないのは、福徳がまだ不足している証です。福徳が深刻に欠ける者は進歩が停滞します。福徳を増すためには大願を発し、他者を思いやり、私心と慢心を減らし、性障を減少させることが必要です。

深く思惟すべき法義の大方向は万人共通ですが、具体的な法義は各人異なり、誰もが現時点で解決できない疑問を抱えています。この疑問を心に深く懸け、観行思惟に没頭し、一切の雑念を離れてこの一点に集中する、これが定です。この定を得てさらに深細に思惟を重ねれば、疑問は次第に解消していきます。

福徳を十分に修めれば定を修めるのは難しくなく、一切の法の修行も容易になります。清浄なる大願を発することができれば福徳は速やかに集積し、性障煩悩を降伏できれば福徳の集積も加速します。こうなれば仏菩薩の加護力は強大となり、道業の進歩は目覚ましいものとなるでしょう。我執に囚われ自己を過度に主張する者は、仏菩薩の加護を受けにくくなります。なぜならそのような者は仏教や衆生への利益にならず、加持を受けても自己利益のみを求めるからです。

定力が未熟な者は、福徳が具足しているか、煩悩性障が軽減されたか、貪着する対象が多くないか、世俗的な執着が心を乱していないか、願力が不足していないかを常に点検すべきです。問題があれば速やかに補い性障煩悩を除去する努力を要します。自力で克服できない場合は楞厳呪を誦し、仏菩薩と護法神の加護を仰ぎましょう。

現代の修行目標は自らの性障煩悩を降伏させることです。常に自己を点検し、不足を補い、調和を保ちつつ修行に励みましょう。言葉で他者を傷つけぬよう注意し、他者の過ちには方便をもって接し、過ちなき者を批判すれば自らの福徳を損ない業を負うことになります。福徳は些細な日常の無自覚な行為から流失します。何事も自己優位に立とうとする慢心は福徳を損ないます。謙虚で穏やかな心が福徳を生むのです。自己を降伏させるのは容易ではありませんが、不断の努力が必要です。福徳ある者は煩悩が薄く慢心も少ないものです。自らの悪念に気付く者は自覚ある者と言えます。意識の五十一心所において悪法は善法をはるかに凌駕します。ゆえに誰も自己を過信せず、常に向上心を持ち続けるべきです。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

参禅の修行方法は尋と伺であります

次の記事 次の記事

参禅の方向

ページのトップへ戻る