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日常開示

2019年07月21日    日曜日     第3 回の開示 合計1708回の開示

雑阿含経 巻一(四)

如是我聞。一時、仏は舎衛国の祇樹給孤独園に住したまえり。その時、世尊は諸比丘に告げたまわく、色において知らず明らかでなく、断ぜず離欲せず、心解脱せざる者は、生老病死の怖れを越えることができない。かくのごとく受想行識において、知らず明らかでなく、断ぜず離欲貪を離れず、心解脱せざる者は、生老病死の怖れを越えることができない。比丘よ、色においてもし知り明らかにし、断じ離欲すれば、生老病死の怖れを越えることができる。諸比丘よ、もし知り明らかにし、離欲貪を離れ、心解脱する者は、生老病死の怖れを越えることができる。かくのごとく受想行識において、もし知り明らかにし、断じ離欲貪を離れ、心解脱する者は、生老病死の怖れを越えることができる。時に諸比丘は仏の説きたまうところを聞き、歓喜して奉行せり。

釈:世尊は比丘たちに説きたまわく、色陰を知らず、明らかでなく、色陰を我とする知見を断ぜず、色陰に対する貪欲を離れず、なお色陰に貪着する者は、生老病死の怖れを越えることができない。

逆に、もし能く如実に色陰を知り、色陰の真実相を明らかにし、色陰の身見を断じ、色陰に対する離欲ができれば、生老病死の怖れを越え、今後再び生老病死の苦を恐れることなく、生老病死の苦を滅尽し涅槃の楽を得る。

ここにいう「知」とは、色陰に対する粗略な了知であり、その無常・空・苦・無我、生滅変異、久住しないことを了知する。「明」とは、明瞭であり、より微細に色陰の無常性・空性・苦性・生滅変異性・無我性を了解すること。「断」とは、色陰を我とする知見を断除すること。「離欲」とは、初禅以後の三果において色陰に対する貪欲・愛欲を断除し、欲貪を離れること。離欲すれば心は色陰より解脱し、色陰に繋縛されず、色陰を滅尽し三界を出離して解脱を得る能力を具える。

世尊は引き続き比丘たちに説きたまわく、もし受陰・想陰・行陰・識陰においてよく認識せず、了解せず、その無常・苦・空・無我の真実相を証得しなければ、受陰・想陰・行陰・識陰に対する貪欲を離れることができず、貪欲が断たれなければ、生老病死の怖れを越えることができ、今後も引き続き生老病死の苦を受ける。受想行識の貪欲を断たぬが故に、貪によって苦が生ずる。

逆に、もし能く如実に受陰・想陰・行陰・識陰を知り、受想行識陰の真実相を明らかに認識し、受想行識陰の無常・空・苦・無我を証得すれば、受想行識陰を我とする我見を断除し、続いて受想行識陰に対する欲貪を離れる。かくして生老病死の怖れを越え、今後再び生老病死の苦を受けることはない。貪欲を断除すれば、受想行識陰の繋縛を離れ、三界を出離し、生死を解脱して涅槃の楽を得る。

この法を修習するには、まず能く粗略に色陰を知り、さらに微細に色陰を了解しなければならない。これには禅定と観行が必要であり、禅定中に観行し、一眼を高くして色陰を明らかに見極め、色陰の真実相である無常・空・苦・無我を証得する。一眼を高くするには意根の思量を用い、意識も一定の高みに立って色身から離れて観察し、心を色身と癒着させず、客観公正に色身を観察すれば、色身の本質的問題を認識し、従来の認知と大きく異なることになる。かくして我見を断じて証果することは比較的容易となる。

一眼を高くするとは、心を引き出し、単独に抽出して五受陰と混合せず、これを反観という。反観は智慧を生じやすく、客観的事実を認識しやすく、新たな発見を容易にする。一眼を高くし、一眼を鋭くするとは禅定であり、旧来の認知を隔離し、智慧を生じさせる。朝な夕なにこの修練を重ね、時が経つにつれて功を積み、従来の誤った認知を覆し、解脱の智慧を得るのである。

問題を認識することは難しくないが、観念を改めることが最も困難である。無始劫以来の観念、すなわち色受想行識を我・我所有と認めることは根深く、習慣化しており、たとえ五陰の無常性を理解しても意根の旧来の観念を改めることはできない。必ず禅定において長期にわたり観行・反観・思量し、この事を究明しようと努め、従来の思想観念を覆すよう求めなければならない。突破口を見出し、五受陰全体に対する我見を断除すれば、大いなる希望が生じる。城塞は少しずつ攻略すべきであり、初めから過大な望みを抱かぬよう、力及ばざることを避けるべきである。

——生如法師の開示
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