衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2018年10月24日    水曜日     第1 回の開示 合計941回の開示

知ることと証得との間の距離は想像を絶します

我見を断つ時、意識は徹底的に思惟分析し、一点の漏れもなく、意根が完全に納得し、疑いがなくなるまで導かなければならない。観行によって我見を断つには、意識が様々に工夫を凝らし五蘊十八界の虚妄不実を思惟観察し、意根を染め上げ、意根が心底から五蘊が確かに我ではないと確認させる必要がある。この時初めて意根の確信が固まり、誰が五蘊は真実だと説こうとも、意根はそれに従って考えず、同意しなくなる。これを達成するには、まず意識自身が理を明らかにし、思惟を明晰にすると共に、意根に適応と確認の時間を与え、五蘊が確かに我ではなく真実でないことに慣れさせる必要がある。

この理論に触れた当初、思惟を始めたばかりの者は、内心に真の恐れを覚え、心の拠り所を失い、空虚感と恐怖に襲われる。これは意根が無始劫以来ずっと五蘊を我と固執し、真実だと信じてきたからである。今、意識がそれを否定すると、意根は到底受け入れ難く、心は恐れと苦痛に苛まれる。意識による不断の薫染を重ね、時を経て意根が受け入れるに至れば、この感覚は次第に消滅する。意根の心備えを整えるには、意識が繰り返し無我の思想を薫染強化し、ついに真に徹底的に我見を断つ日が訪れる。

ただ意識が五陰身や諸法の虚妄を知るだけで、意根が未だ知らず認めないなら、何の役にも立たず、表面的な理解に過ぎず真の我見断ちではない。初果から四果に至るまで、意根は不断に五蘊の生滅無常・虚妄無我を認め、完全に納得した時、意根は五蘊世界への執着を断尽し、生死輪廻を出離する力を得る。意根が完全に執着を断ち四果を証得すれば、球体スクリーンの映像を観るが如く、いかなる現象が現れても心は平然として、避けも迎えもしない。意根はもはや身体に回避を命じず、境界が全て非実在でスクリーン上の虚像と知る故、恐れを抱かなくなる。

ここから分かる通り、衆生の心理には表面的な作用と潜在的な作用があり、決定的な影響を及ぼすのは深層に潜む力である。これは根深く容易に転換せず、説得し難い意根の慣性力である。この慣性力を転換することは極めて重要で、無量劫にわたる生死の大問題、即ち分段生死と変易生死を解決し、無始劫以来の無明惑業苦を断じて涅槃の彼岸に至る。

意根が五蘊への執着を断尽する境地は、小乗では四果阿羅漢、大乗では七地満心にして八地に入る時に相当する。八地菩薩の解脱証量は四果俱解脱の大阿羅漢に匹敵し、初地満心は慧解脱阿羅漢に相当するが、初地菩薩は慧解脱阿羅漢の果位を取らず、思惑煩悩を全て断尽しない。意根が人我執を断尽する境地は、未証得ながら比量推量で知り得る。同様に法我執断尽も非量的思惟で概略を窺い知れる。この「知る」と「証得」の隔たりは、ほぼ二無量劫から三無量数劫に及ぶ。知と証の距離は想像を絶する。

或る者は法義を少々知るだけで慢心を起こすが、それは取るに足らない。仮に深遠な仏法を証得したとしても、慢心すべきではない。十方世界と三世を見渡せば、八地菩薩の境地に至っても依然として大したことなく、智慧浅く見識乏しき者ほど慢心を生じやすい。聡明で智慧深く、見聞広き者は、無数の優れた存在を知る故、眼界が広く慢心を起こし難い。

——生如法師の開示
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