我見を断じる際には、意識が徹底的に思惟分析を行い、一点の漏れもなく、意根が完全に納得し疑いを残さなければならない。観行によって我見を断ずるには、意識が様々な方法で五蘊十八界の虚妄不実を思惟観察し、意根を教化して、意根が心底から五蘊が確かに我ではないと確認させる必要がある。この時こそ意根の確信が固まり、誰が五蘊は実在だと説いても、意根はそれに従って考えず、同意しない。これを達成するには、まず意識自身が理を明らかにし、思惟を明晰にするとともに、意根に適応と確認の時間を与え、五蘊が確かに我ではなく実在でないことに慣れさせる必要がある。
この理論に初めて触れ思惟を始めた時、ある者は内心真に恐れを感じ、拠り所を失い、空虚感と恐怖を覚える。これは意根が無始劫以来ずっと五蘊を我と固執してきたため、今突然意識がそれを否定することを伝えると、意根は到底受け入れ難く、故に恐れと苦痛を感じる。意識による不断の教化を経て時が経ち、意根が受け入れるに至れば、この感覚は次第に消滅する。意根の心構えを十分にするには、意識が反復継続的に教化を重ね、無我の思想観念を強化し続け、ついに真に徹底的に我見を断ずる時が来るのである。
単に意識が五陰身及び一切法の虚妄を知るだけで、意根がまだ知らず認めないなら、何の役にも立たず、表面的な理解に過ぎず、真の我見断絶ではない。初果から四果に至るまで、意根は不断に五蘊の生滅無常虚妄無我を認め、完全に認めた時、意根は五蘊世間への執着を断尽し、生死輪廻を出離する力を得る。意根が完全に執着を断じ四果を証得した時は、球体スクリーンの映画を見ているようなもので、スクリーン上に何が起ころうと、内心は何事もなく、避けも迎えもしない。意根はもはや身体に何かを避けさせず、境界が全て不実でスクリーン上の現実でないことを知り、恐れを抱かなくなる。
ここから、衆生の心理には表面的な作用と潜在的な作用があり、決定的なのはやはり隠された力、つまり根深く転換困難で説得し難い意根の慣性力であることが分かる。この慣性力を変化させることが極めて重要であり、無量劫以来の生死の問題、分段生死と変易生死を解決し、無始劫以来の無明惑業苦を断じて涅槃の彼岸に至ることができる。
意根が五蘊への執着を断尽する境地は、小乗では四果阿羅漢、大乗では七地満心で八地に入る時に相当する。八地菩薩の解脱証量は四果倶解脱の大阿羅漢に匹敵し、初地満心は慧解脱阿羅漢に相当するが、初地菩薩は慧解脱阿羅漢の果位を取らず、思惑煩悩を全て断尽しない。意根が人我執を断尽する境地は、未証得ながら比量推論で多少理解できる。同様に意根が法我執を断尽する様も、比量非量の思惟で大略を推し量れる。この理解と証得の隔たりは、ほぼ二無量劫から三無量数劫に及ぶ。知ることと証得することの距離は、まさに想像を絶するのである。
ある者は法義を少し知っただけで慢心を起こすが、それは取るに足らない。たとえ真に深遠な仏法を証得しても、慢心する価値はない。十方世界と三世を見渡せば、八地菩薩の境地に至ってもなお大したことではなく、智慧浅く見識狭き者ほど慢心を起こしやすい。聡明で智慧深く見識広き者は、無数の優れた存在を知っているため、眼界が広く慢心を生じにくいのである。
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