だから小乗阿羅漢の法は究竟の法ではなく、一段期間修学するだけのものです。大乗仏法を学ぶ菩薩である私たちは、小乗仏法も避けられず必ず修証しなければなりませんが、涅槃という道は歩みません。自ら成就した後、さらに他を利する、これが菩薩の発心です。菩薩の心量は広大で、自分自身を度するだけでなく、自分と同じく輪廻の苦を受けているすべての衆生をも度し、彼らが同様に究竟の解脱を獲得するようにするのです。それが大心菩薩の所為であり、だから菩薩は大心衆生とも呼ばれるのです。
「已断流转生死有苦」、阿羅漢たちはすでに三界を流転する生死の苦を截断しています。「有」には欲界有、色界有、無色界有が含まれ、すなわち欲界には欲界の法があり、色界には色界の法があり、無色界には無色界の法があり、この三界の「有」はすべて苦です。三悪道が苦であるだけでなく、私たち人間の道もまた苦であり、では天人はどうでしょうか。彼らも同様に苦があります。「楽」の中に苦はないのでしょうか?楽の中にも苦があり、しかもこのいわゆる「楽」そのものが一種の苦であり、楽が過ぎた後もまた苦です。仏の説かれる苦には、苦苦、行苦、壊苦の三種があります。天人には苦苦はありませんが、行苦と壊苦はまだあります。なぜなら彼らのその楽は永久的なものではなく、留めておくことができず、遅かれ早かれ消えてしまうもので、この種の苦を「行苦」と呼びます。楽の感受が消滅することを「壊苦」と呼びます。特に臨終の時、天人には五衰の相が現れます。一つは身体が臭穢になること、二つは花冠が萎れること、三つは衣が塵に落ちること、四つは両腋に汗をかくことです。天人の身体は臭穢で鼻につくようになり、近づこうとする天人は誰もおらず、みな彼を避けて遠ざかります。天上の宝座に座っていられなくなり、頭上の花冠も枯れ萎れ、もとは衣はどれも清浄で、永遠に塵を落とすことがなかったのに、今は衣に塵がつき、両の脇の下にも汗の臭いが現れます。これらの現象が現れたとき、天人の生命がまもなく終わろうとしていることを示し、彼は苦を受けに行かなければならず、これを天人の「五衰相現」と呼びます。この三界における生死有の苦を、阿羅漢はすでにすべて断じ尽くし、未来にはもはや生死の苦受を受けることなく、三界に受生することはありません。
「正智力をもって、善く衆生の心の趣く所を知る。」阿羅漢は苦・集・滅・道の四聖諦の法を修行し、解脱の智慧を獲得し、一切智を具足しています。この智慧によって、衆生の心行が到底どこに趣向するのかを如実に観察することができるのです。衆生が貪り、喜び楽しむ法を見れば、衆生が命終して六道のうちのどの道に趣向するかを知ることができ、また衆生が解脱を獲得して無余涅槃に入ることができるかどうかも知ることができます。大多数の衆生の心は三界の世間法に貪着しており、未来に世間法の束縛から脱することはできず、みな六塵の束縛を受け、六道に趣き、世俗の五陰に趣き、六塵の色声香味触法に趣き、生死輪廻から出生することはありません。
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