衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年06月27日    木曜日     第1開示 合計1640開示

我と我所は異ならず、ともに我見(satkāya-dṛṣṭi)である

我見は断じがたく、根が深く固いためであり、我所見もまた非常に断じがたく、根が深く固いためです。五蘊の一部の功能作用を我とみなすと、他の一部の功能作用を我所とみなすことになり、根深く固く我・我所有と執着した習慣的な認知は転換が非常に難しい。不如理な知見を断除しようとするなら、長期的な観行 (vipaśyanā-caryā) が必要であり、五蘊に対する自分のさまざまな観点・見方を不断に反観し、定 (samādhi) の中で如理に思惟 (manasikāra/manana) しなければなりません。

我と我所は一なるものではなく、異なるものはすなわち異です。たとえば受蘊を我とみなすならば、色蘊は我の我所有であり、我と我所は異ということになります。色蘊は我であるという我見を断したように見えても、色蘊を我所とみなす知見もまた邪見 (mithyā-dṛṣṭi) であり、根が深く固く、我と我所見は同様に我見であり、いずれも断除しなければならず、いずれも断じがたいのです。断我見 (ahaṃkāra-mamakāra-parityāga) の後は、知見が正され、我と我所は異ならず、受蘊は我ではなく、色蘊もまた我所ではなく、二者とも我ではないと考えるようになります。

断我見の前は、受蘊を我とみなし、色蘊を我所とみなし、受蘊は色蘊の中にあり、色蘊は受蘊の中にあり、二者は互いに存在し、その体に周遍していると考えていました。断我見の後は、知見が正され、受蘊は我に非ず、色蘊は我所に非ず、受蘊は色蘊の中になく、色蘊もまた受蘊の中になく、二者は互いにその中に存在せず、色受想行識の五蘊は我に非ざるがゆえであると考えるようになります。

この問題は思議し難いものであり、禅定の中で、問題を脳裏に懸け、意根の中に懸けておく必要があり、いつの日か開竅して、その義に通達するでしょう。この結びが解ければ、断我見の障害は排除され、観行 (vipaśyanā-caryā) の抵抗は小さくなります。

——生如法師の開示
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五蘊は我に非ず、我と異ならず、相在せず

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如来蔵の不動性

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