禅定に入る際に自分が消失するのを恐れたり、戻れなくなるのを恐れたりするのは、すべて意根の恐怖である。意識が意根に説得を加え、五陰の身に執着しないようにする必要がある。五陰の身は実体ではない。したがって我見を断つには意根が断つ必要があり、煩悩を断つには意根が煩悩を断つ必要があり、無明を断つには意根が無明を断つ必要がある。一切の煩悩は意根であり、解脱とは意根の問題を解決することである。
多くの事例がこの問題を説明している。禅定力が不足し、智慧力が不足していると、この点を認識できない。あの意根は鈍くて愚かなのに、かえって意識を貴重だと思い込んでいる。意根が火を出していることさえ気づかず、意識の火を消そうとして、家財道具がすべて燃え尽きてもまだ外側をうろついている。何の智慧だろうか。
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