衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2019年06月09日    日曜日     第3 回の開示 合計1591回の開示

楞伽経における如来蔵の自性清浄性

楞枷経原文:大慧。この如来蔵識蔵。一切声聞缘覚辟支仏。心想所见。自性清净であるが、客塵に覆われる故、不净を見る。诸如来ではない。大慧。如来者。現前境界。掌中の阿摩勒果を視る如く。

略释:ここでは声聞と缘覚辟支仏について述べています。彼らは如来蔵に対して、ただ心想一想のみでき、心中臆想として如来蔵が自性清净心であり、真実の我であるという知見观点を持っています。しかし、真実の証得はできず、大心を発した菩薩のみが証得できます。推测や臆想をしないように。声聞缘覚たちは自性清净心を知っていますが、无始劫以来の客塵煩悩に覆われ遮蔽され、彼を見ることができません。故、知見はまだ不足であり、彼らは小乗的法眼清净を証得していますが、如来蔵法に対して法眼はまだ生起せず、知見はまだ不清净です。

故、声聞缘覚は第八識如来蔵を証得できません。もし証得できれば、阿罗汉辟支仏菩薩となり、種性が変わります。

诸佛诸如来はそうではありません。诸佛如来は一切法が呈现する時、現前境界であり、現量観察です。想象や思惟を用いず、臆想も用いません。完全に現量境界であり、境界が面前に立時即知、掌中の阿摩勒果を視る如く清晰、透明、清澈、真净です。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

父子合集経選講(八二)

次の記事 次の記事

父子合集経選講(八三)

ページのトップへ戻る