大慧よ。身見には二種ある。俱生と妄想とを謂う。……これ須陀洪の妄想身見なり。彼は人無我をもって、無性を摂受し、久遠の無知計著を断除す。
大慧よ。俱生とは、須陀洪の身見なり。自他の身等しく、四陰は色相なきが故に、色は生じ、造り及び造られるが故に、展転相因る相の故に、大種及び色は集まらざるが故に、須陀洪は有無の品の現れざるを観じ、身見は則ち断たる。かくの如く身見を断ずれば、貪は生ぜず。これを身見相と名づく。
……須陀洪は三結を断じ、貪痴は生ぜず。若し須陀洪が「此の諸結は我に成就せず」と念ずれば、二過あるべし。身見に堕ち、諸結の断えざるなり。大慧、仏に白して言く「世尊。世尊は多くの貪欲を説きたまう。彼は何れの貪を断つや」。仏、大慧に告げたまう「女人を愛楽し、纏綿貪著する種々の方便、身口の悪業、現在の楽を受けて未来の苦を種く。彼は則ち生ぜず。何を以ってか。三昧正受の楽を得るが故なり。是の故に彼は断つ。涅槃に趣く貪の断つに非ざるなり」。
略解:楞伽経において、身見には二種あると説かれている。一つは妄想、即ち意識の身見であり、これを断除する必要がある。もう一つは俱生、生来備わる身見、即ち意根の身見であり、これもまた断除すべきである。二種の身見を共に断じて初めて身見を断つ者と為す。これは楞伽経中の仏説を援引するもので、私個人の見解に非ず。皆様の注意を喚起し、意識が身見・我見を断てば足りると考えることなく、仏説を基準とすべきことを望む。
楞伽経に仏は説きたまう:須陀洪が身見を断じた後、色身への貪は生ぜず、故に色身のために悪業を造作すること無し。これは仏の説きたまう所なり。俱舎論に説かれる初果須陀洪の「悪を造らざる」という説とは異なる。
一切の法は仏説を以て準拠とす。いかなる人も仏説と一致せざるならば、信受すべからず。その人が如何なる名声ある大師であろうと、如何なる果位の人であろうと。
一切の学仏者は仏法を学ぶを主とし、仏説を信受するを主とす。個人崇拝を弄さず、名師への情結を抱かず、理智ある学仏修行者となるを志すべし。修学は仏経を学ぶを主とし、仏説を宗旨とす。真の仏弟子となり、名実相伴う仏弟子たるべく、某かの名師の弟子たるに非ざるべし。
身見を断つには意識の身見と意根の身見を分かつ。即ち識心の我見を断つには、更に意識の我見と意根の我見を分かつべし。意識の妄想我見と意根の俱生我見の二種に分たる。
只だ意識の我見を断ずる者のみは、断我見者と名づけず。必ず新たに定を修し、観行を以て五蘊無我を参究し、意根の我見を断ずるを要とす。然らずんば因果は容赦せず。
楞伽経に仏はまた説きたまう:須陀洪は三結を断じ、貪痴は生ぜず。これは或る種の貪が生ぜざるを説く。全ての貪が生ぜざるは三果人なり。初果は身見の三結を断除し、異性への纏綿貪は生ぜず。三昧の楽受あるが故なり。所謂る三昧楽受とは、初果証果時の禅定覚受と覚明現象なり。故に初果を証するには必ず禅定を要す。未到地定を得て後に初果を証する時、初めて三昧境界あり。禅定と我見を断つ智慧を含む。
故に「初果を証するに禅定を要せず」と説く者は大いに誤り、仏意に背き、衆生を誤導す。自ら我見を断ち初果を証得せりと認為する者、もし証果時に三昧楽受の現象現れざるならば、必ず我見を断ぜず、必ず初果を証得せず。証果後に煩悩が依然として以前の如きならば、必ず我見を断ぜず、三結を断除せず、必ず証果せず。即ち自らに責任を負い、未来世の果報に責任を負い、再び定を修し観行を以て五蘊無我法を参究すべし。
自ら心を長ぜず、一味に縁ある人の教導を信受し、理智を欠き、情執深重なれば、必ず損を招く。悔い改めの薬を服すべく、自らを救い悪道に堕ちざらしむべし。然らずんば果報畏るべし。人に対し自ら証果・明心開悟を宣べ、かつ意識による証果・明心を主張する者は、必ず懺悔し、大妄語の悪業を滅除し、後世の悪劣なる果報を免るべし。
或る者は敢えて我と張り合い「我見を断つに意根の我見を要せず」と説く。今や仏経を以て証明するに、究竟に誰が誤りか。誰が衆生を誤導し歧路に引き入れたるか。
また或る者は我と張り合い「証果と明心は禅定を要せず」と説く。楞伽経ここに更に明らかに説く:証果明心は禅定無くしては成らざるを。今や明らかなるは、我と張り合うに非ず、仏と張り合い、仏経と張り合い、真理と張り合うなり。その結果如何、自ら考えるべし。
再び或る者「我見を断ち初果を証するは只だ意識の智慧の認知に過ぎず、身口意行を改むる要無し」と説くならば、最早何の道理も口実も無し。仏経は明明白白に説き清楚なり:初果は三結を断じた後必ず一部の貪と痴を断除し、煩悩ある程度降伏す。初果人が再び悪業を造作するは、一点の口実も無し。煩悩深重にて身口意行の悪業を造作するならば、必ず我見を断ぜず初果を証せず。楞伽経を以て証とす。
初果人は法眼浄きを開始す。必ず法眼浄きの功徳受用あり、必ず一部の解脱の功徳受用あり。若しこれ無きならば、必ず我見を断ぜず、必ず証果せず。仏説を以て準拠とす。或る者は自らに大いなる聖人の冠を被るを好む。豈に知らんや、かかる冠は安易に自らに被るべからざるを。
娑婆世界、殊に仏去ること二千余年なる今の末法時
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