問:先程ある人と出会い、しばらく話をして、互いに連絡先を交換しました。この出来事は意識に記憶されているのでしょうか、それとも意根に記憶されているのでしょうか、あるいは両方に記憶されているのでしょうか?その違いは何ですか?
答:あらゆる経験した人・事・物は、まず意識に落ちます。意識は覚えているかもしれませんし、覚えていないかもしれません。意識が覚えた後、意根にも記憶される場合もあれば、意根に記憶されない場合もあります。一つは意根が興味を持たないため、もう一つは時間が短く、意根が了別し記憶する間がなく、印象が薄いためです。
特別な場合として、意識が重要視せず覚えていなくても、意根が以前に出会ったことがあり慣れ親しんでいれば、意識が特に覚えようとしなくても、意根自体が記憶できます。その後、意識はこの事を考えようとしなくても、自動的に思い出し、自分でも不思議に思い自問します:「なぜ私はいつもこの事を考えるのだろう?」これは意根が憶念する結果です。
もしある事柄がただ意識に存在し、意根に印象がないなら、再び思い出すことはできません。なぜなら、思い出すか否かは意根が主導的に決定するもので、意根がこの事を処理するために憶念する必要があって初めて、意識が生起し思い出すからです。
もし単に意識に存在するだけなら、意識はどうやって思い出すのでしょうか?意識は自生するのでしょうか?刹那刹那に一切の法に存在し続けるのでしょうか?明らかにそうではありません。事柄が過ぎ去れば、意識はその事柄において消滅します。その後どうやって思い出すのでしょうか?
意根が意識に思考させなければ、意識は生起して再び思考できるでしょうか?意根が意識に回想させなければ、意識は生起して再び回想できるでしょうか?どちらもできません。意識に自主性はなく、自由自在に存在し続けることはできません。意識が存在する前提は、意根が常に塵境に触れることです。意識は自ら如何に主動的に生起し、再び主動的に回想するかを自主することはできません。意識が主導識となって意根に取って代わることはできないのです。
もし意識が意根に奉仕するものであるという真実の理を認識し、意根と意識の主動・受動の関係を整理できれば、一切の法はよく処理され解決されます。特に唯識の問題についてはそうです。
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