末那識は恒常的審慮思量の体性を有する。「恒」とは恒常性・永久性を指し、審度思量の作用は永遠に末那識に随伴する。末那識が存在する限り、末那識は一切の法を審度思量する。衆生の末那識は無始劫以来断滅したことがなく、小乗の四果阿羅漢や縁覚辟支仏の果位に至って初めて滅する能力を得る。これ以外の衆生の末那識は未来世を通じて仏地に至り、仏地以後も滅することなく、永久的に存在し続ける。そして第八識に世間の万法を不断に現起させる。この断滅しない体性を「恒」と称し、その思量作用も刹那刹那に末那識の現行作用に随伴して永劫に停止しない。これが末那識の恒性である。
「審」とは審慮・審査・審度・評定を意味し、疑情を表す。ある状況を探明し、事理を明らかにしようとする。確知できないため疑情が生じ、審度思量が必要となり、ある法が如何なるものか、真に正しく如実であるか、特定の状況であるかを判断する。この心の働きを「審」と称する。世俗法における年次審査・審査・審度・審訊・審問はこの「審」の意味である。末那識は審の体性を有し、審がなければ決断を下すことができず、常に審査・審慮・審度を経て、心中に明らかになって初めて最終的な決断を行う。
「思量」とは、末那識が一切の法に対して一定の衡量・取捨・決断・考量・参究・量度・籌度・了別を行うことを指す。ある法の内容と内包が如何なるものか、自己に利益があるか、如何に行動すべきか、如何に心愿を満たし目的を達成するかを衡量した後、取捨決断を行う。故に末那識は思量性を有する。末那識は思量を経て初めて自らの思量結果に基づき、取るか捨てるかの決定を下し、六識を主導して相応の身口意行を採らせ、目的達成を図る。第八識もまた末那識の思量決断に随順し、これに配合して万法を出生せざるを得ない。
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