衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2018年10月16日    火曜日     第3 回の開示 合計920回の開示

仏教を学ぶ際、個人崇拝を絶対に行ってはなりません

無為法とは第八識を指し、有為法に相対して仮に立てられたものではなく、真実の法であり、本来より存在し、生滅せず、仮の法ではない。第八識は五陰七識の仮の我に対して真我と説かれるが、凡夫や菩薩の位においてはなお生滅の種子を有し、完全なる我には属さない。仏地に至り、染汚の生滅変異の種子を消除した時に、常楽我浄の真実の我となる。

根本的なところが誤っている場合、枝葉の是非は問題にならない。悟りを開かずに唯識を説くのは笑い話であり、悟りの智慧をもってしても唯識を適切に説くことは難しく、唯識に対する修証がなければどうして唯識を語れようか。現代世界の唯識が後世に伝わる際、もしその者が名声と権威を有していれば、後世の人は再び五体投地して崇拝し、どれほど多くの真実の修行を志す仏弟子を誤らせるか分からない。世間では往々にして名声ある大徳の著作が全て正しく誤りなきものと錯覚し、唯識を説く者が皆修証を有する者だと考える。衆生の無知はここにあり、救いようがない。

もしこのような唯識を宣伝し修学するならば、宣伝すればするほど罪責は大きく、学べば学ぶほど解脱から遠ざかる。諸君は各自よく心せよ。修行の道は険しく、様々な罠に遭遇する。福徳を修め、智慧を増すことが最も肝要である。後世になればこれらの説法は古文となり、人は往々にして古を崇ぶ。もしこの誤った古文を崇拝すれば、人を害することにならぬか。世に眼を開く者が幾人いるだろうか、古文の是非善悪を弁えられる者が。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

一切の法は唯如来蔵によって造られたものです

次の記事 次の記事

意識の解より意根の証はるかに難し

ページのトップへ戻る