衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年05月01日    水曜日     第3 回の開示 合計1480回の開示

意根は五塵における重大な変化を伴う法塵のみを縁とするのか?

仏は「意は刀剣の鋒(きっさき)の如く、自らを割くこと能わず」と説かれた。これは第七識たる意根、すなわち末那識(まなしき)を指す。仏がこの第七識を意根と名付けられたのは、意識の種子が第八識より現起する動力となるためであり、意識は末那識の作意(さい)によって初めて現起し、現起後は全て意根たる末那識の作意に依って運行する故に、末那識を意識の根と説くのである。この意根の別境慧(べっきょうえ)は極めて劣り、五塵上の法塵に対して極めて単純な了別(りょうべつ)しか行えぬ──例えば五塵上の法塵に大きな変動があるか否かといった程度である。この第七識は意識の覚知心(かくちしん)が五別境心所法(ごべっきょうしんじょほう)を機敏に運用する如くではなく、「欲・勝解・念・定」の心所法を具えず、慧心所(別境慧)の機能も極めて劣り、ただ法塵上の変動を極めて単純に了別するのみである。

かくの如く、五塵境(ごじんきょう)すら了別できず、意識を喚起した後、意識の別境慧に依って初めて諸境界に対し種々の思量をなすべきである。いずくんぞ自らを反観する能力あらんや。いずくんぞ諸法を思惟する能力あらんや。いずくんぞ自らの心行(しんぎょう)及び習気(じっけ)を修正する能力あらんや。是の故にこの第七識は極めて機敏に一切法を遍縁(へんえん)し、また意識心の別境慧に依って処々に作主(さしゅ)し、時時に作主し、また種々の心行を思量決定することができる。しかしながら意識の別境慧を離れれば、為すところ無し。かかる体性により、仏は「意(末那識)は刀剣の鋒の如し」(一切法を遍縁する機敏性を喩える。意識には別境慧あるも、一切法を遍縁せず)と説き、「自らを割くこと能わず」(別境慧の「証自証分」を具えざる故に自らの善悪の心行を修正できぬことを喩える)と説かれた。即ちこの識が「その染汚性を改め、清浄なる意根に転換せん」と欲するには、必ず意識の別境慧及び思惟慧に依らざるべからず、唯だ自身の機能に依って自らに相応する煩悩を除断すること能わざるが故に、仏は「意は刀剣の鋒の如く、自らを割くこと能わず」と説かれたのである。

問:師匠、上記の文章はどこか違和感を覚えますが、ご解説頂けますか。

答:意根が一切法を遍縁できるなら、いかなる法も縁できずということはない。しかるに彼は意根が五塵上の法塵のみを縁とし、かつ重大な変化に限ると言う。これは矛盾している。

意根に欲がなければ、造作(ぞうさ)を思わず、六識も現れず、万法も出現しない。

眼識が多くの色彩の中から紫色を選択するのは、意根が決定する故である。これにより意根も五塵境を縁とし、六識にどの五塵境を了別させるかを主導できることが分かる。

意根が縁できない法があれば、意根は一切法を遍縁するものではない。

意根に勝解(しょうかい)がなければ、常に曖昧模糊としており、主(あるじ)として正しく理に適い真実に叶い法に順った事を行えず、危険を避けられず、識を転じて智と成すこともできない。

意根に念(ねん)がなければ、意識に念を起こさせることができず、いかなる法も現れず、念仏もできず、参禅も思わず、万法は出現しない。

意根に思量思惟する力がなければ、意識が意根を薫染(くんぜん)することも無意味となり、識を転じて智と成すこともできず、いかなる智慧も現れない。

意根に定(じょう)がなければ、六識が如何に定を修めても定まることはない。

意根が善悪の心行を修証できなければ、永遠に善悪の心行を改められず、善は永遠に善、悪は永遠に悪のままで、如何にして煩悩を降伏し断除できようか。意識が意根を薫染することも何の効果もなく、功を費やすのみである。意根に反観力がなく証自証分がなければ、仏が説かれる「八識皆証自証分を具える」ことに反する。衆生がかくも自らを信じ、非常に頑固なのは、意根の証自証分が作用しているからである。

意根に恒審思量(ごうしんしりょう)の作用があれば、一切法は必ずその審査を経て初めて通過し、抉択(けっちゃく)を下せる。意根の慧が常に低劣ならば、如何にして合理的な審査を行い、智慧の抉択を下せようか。智慧の抉択ができなければ、衆生の身口意行は時処所々に愚痴無智の性を表し、世間にどうして聡明な人が存在できようか。仏法を学ぶこと何の用あろう、如何にして智慧を開き仏と成ることができようか。

通篇にわたり誤謬だらけである。

——生如法師の開示
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