須菩提。所言う善法は、如来の説くところ即ち善法に非ず。是れを名づけて善法と為す。
釈:世尊は再び須菩提に告げられた。須菩提よ、我の説く善法は、衆生の認める善法とは異なり、如来の説くところもまた真実の善法にあらず。実質的な善と法は存在せず、全ては仮の相に過ぎない。故に仮名をもって善法と称するのである。
善法には多様な次元と内実が存在する。世俗の善法もあれば、出世間の善法もある。小善法もあれば大善法もあり、更に究竟の意義を具えた善法もある。世間善法とは五戒十善を指す。世尊が初めて娑婆世界に来現された際、まず人天善法を説き、衆生に修行の指針を与え、世間的福徳を得させられた。これが小善である。衆生が世間的福徳を得た後、続けて世尊に随って阿含の解脱道を修学し、三界世間の苦から脱出する。これが中善である。その後、世尊は二十余年を費やして衆生に般若の理を宣示され、衆生がこれに依って修行し、ことごとく般若実相を証得し、真実義の菩薩となり、深甚な般若智慧を発起するに至らしめられた。これが上善である。さらに世尊は方広唯識の深甚なる義理を説き、大乗菩薩たちを教化して漸く深甚な道種智を具えさせられた。これが大善である。最後に世尊は法華涅槃等の一仏乗の究竟義を説法し、すべての衆生を教化して成仏の道に入らしめ、成仏の法を修行して究竟円満の仏果を成就させる。これが究竟の善である。
これらの善法はすべて対応する法相を有するが、それらの法相は全て四相無き無相の心体である如来蔵に依って顕現し幻化されたものである。これらの法相は、如来蔵が様々な縁に依って種子を流注し成就したものである。表相は存在し、衆生には見えるが、有は実有にあらず、相は真実の相にあらず。その本質は真如如来蔵そのものであり、全て真如一真法界の中の存在であって、真如を出るものではない。一切の善法相は黄金の器が黄金から生じるが如く、その本質は全て黄金如来蔵である。故にこれらは全て一つの真実の法界――真如の体性なのである。さればこれら全ての善法の仮相を、実体なき法ながら善法と仮名し、名こそ善法と称するも、実質は真如の理体なのである。
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