意根は一法や二法のみに縁することはできず、その縁する法には重点と側面が存在します。あるものは意に留め、あるものは留めず、あるものは心を用い、あるものは用いません。これにより重点を突出させ、六識に重点部分を了別させることが、すなわち定です。
意識も一法のみに縁することはできず、多くの場合二法三法を超えます。例えば意識が念仏三昧にある時、重点は仏号と仏念に縁しますが、意識は昼夜を知り、行住坐臥を知り、東西南北を知り、周囲の状況を知り、避けるべきものも知っています。念仏以外何も知らない愚者のようではなく、三昧定中にあってもなお機能しています。眼識が定中にある時、眼前の一事物に注目しますが、光明と暗黒なども同時に認知しています。
これは、定が一法のみに縁することを以て定と称するのではなく、注意力が集中し、専注力が充分である状態こそが定であることを示しています。定力の強い者は専注力に優れ、複数の事柄を同時に処理しても無用な部分に心神を分散させません。
意根には遍縁性がありますが、常に一切法を同時に縁する必要はありません。精力が不足すれば選択性が生じ、現前において重要と感じる法に縁し、慣習的に縁する法には慣性作用で必ず縁しますが、必ずしも精力や注意力を多く配分せず、軽く心にかけるだけで足ります。
例えば私が五百人を管理する権限を持っていても、同時に五百人全てに精力と興味を注ぐことはできず、各瞬間に選択が行われます。意根も同様で、権限は権限、能力は能力、興味は興味として別です。意根の禅定力と精力、智慧力が不足しているためです。
これに対し第八識は全く異なります。第八識の比類なき楞厳大定と無上の大智慧は、同時に一切法を遍縁し処理することが可能で、遠近古今を問わず時空の隔たりなく加持と処理を行います。故に第八識の定慧は七識のそれを超越し、地前菩薩の想像を超えるものです。
意根は定心所法と相応しますが、大多数の者の意根には定がなく、禅定を修得した者のみが意根に定心所を有します。禅定者の意根に定心所がなければ、どうして六識を安定させ得ましょうか。
例えば意根が眼前のスミレに興味を持てば六識に鑑賞させ、同時に傍らの鳥の声に興味を持てば六識は注意を分散させて聴取し、やがて人物に興味を持てば六識は観察評定します。このような状態で、どうして六識に定があり得ましょうか。
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