衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年04月04日    木曜日     第1 回の開示 合計1388回の開示

金剛経唯識深義(五十八)

何故に如来蔵を証悟することができるのでしょうか。それは金剛経を読誦し、学修し、その義理を貫通し、戒・定・慧の福徳を具足したからこそ、如来蔵を証悟したのです。その後、他者に説法して他人を証悟させ、他者に成仏の基礎を築かせるその福徳は、更に不可思議であり、七宝を布施する福徳をはるかに超越しています。

仏は須菩提に告げました。何故証悟後に人々に説法するその福徳が七宝の布施に勝るのでしょうか。一切の諸仏及び諸仏の説く仏法は、全てこの金剛経、即ち金剛心如来蔵から来たものだからです。如来蔵を証悟する前提と基礎の上に、如来蔵の種子機能を学修すれば、此れより後次第に仏道を成就し、菩提を円満することができます。諸仏の三大阿僧祇劫に修行した善法の種子は全て自らの如来蔵に存在し、悪業の種子は無くなり、無明が滅尽すれば即ち仏となります。諸仏は如来蔵より来たりて成就し、成就後に衆生のために一切の成仏の法を説きますが、説かれる法も全て諸仏の自心如来蔵より流露したものです。諸仏が歴劫に修行した善法の種子は自らの如来蔵に存在し、これらの種子を流注して仏法となりました。故に一切の仏法は此の経典である金剛心如来蔵より出て来るのです。

仏は須菩提に言いました。「所謂る仏法は、即ち仏法にあらず」。この言葉が主題に緊密に結びつき、この品の中心句となります。仏の説く一切の成仏の法が所謂る仏法であり、人為的に仏の説法を仏法と称しています。仏の説く法は、仏が修持した法種が仏の如来蔵に留蔵され、因縁に基づいて演説されたもので、この法種は後天に蓄積された後天的なものであり、本来の法ではありません。仏が演説する時も因縁に応じて異なる法を説きますが、この法もまた因縁所生の法であり、本来有る固定的な法ではありません。本来有る固定的な法でない以上、真の意味での仏法ではないのです。

真の意味での仏法とは本来有り、永遠不変で、不生不滅の、因縁によるものではなく、本来より如是なる法、法爾如是なる如来蔵・無垢識・真如・第一義諦・第八識・異熟識・大円鏡智を指します。その他は全て人為的な名称に過ぎず、方便として仏法と説かれているに過ぎません。要するに、世出世間法において真如一法のみが真実の法であり、真の意味での法、本来の法、実相の法であって、その他は全て後天的に生起した因縁形成の生滅可能な法であり、実相の法ではないのです。

——生如法師の開示
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