第八識を実証することは人を探すことに似ており、両者に大きな違いはありません。例えば私たちがある人を探そうとする時、思索を重ねて最終的にその人が特定の地域の部屋にいると確信したとしても、実際にその人を目撃しなければ、本当に見つけたと言えるでしょうか。
実際に対面しない限り、その人を見つけたとは言えません。たとえその場所にいると確信していても、会っていなければ発見とは認められません。その人の容姿や現在の行動様式、心境、修行の境地を知らず、その場所に本当に目的の人物が存在するかも確認していないからです。目撃しない限り真実とは言えないのです。
どれほど確信を持っていても、実際に目にしなければ発見とは言えません。真に発見した時には、その人の具体的な行動様式を目の当たりにするものです。これを「現量」と言います。
部屋にいると信じていても、具体的な行動内容を知らなければ智慧は生じません。仮に推測が的中したとしても、それは智慧の誕生を意味しません。
例えば上司から「某甲を探し出し行動を確認せよ」と命じられた場合、苦労して情報を集め「十一階で寝ているだろう」と推測して報告したとしても、これは推測の域を出ません。直接対面して観察し、継続的に智慧を育む必要があります。
多くの人々が長年修行しても進歩しない理由は、自証を得ず理解に頼っているからです。たとえ八地菩薩の境地を正確に推測できても、それは凡夫のままでいることに変わりありません。仏法実証の難しさ故に、このような方便を用いるのです。
真に第八識を証得した後は退転しません。他人の言葉を盲信するのとは異なり、自ら苦労して現量を得たものは疑念を生じないからです。譬えるなら、直接リンゴを見て味わわなければ、他人の説明だけでは真実を体得できないのと同じです。
万人集会で第八識の働きを詳細に説き、80%の聴衆が理解したとしても、それは推測によるものです。真の明心菩薩となるには、自ら参究し現前観察する必要があります。推測による「悟り」は真の転依を起こさず、功徳の受用も生じません。
今私がリンゴを削って食べる様子を直接観察すれば、削り方から慈悲心の現れまで学べるでしょう。第八識を自証した者は、その働きを現前観察し、心性を陶冶していきます。推測に頼る者には、このような功徳の受用は永遠に訪れないのです。
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