衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2026年08月25日    火曜日     第1開示 合計4820開示

意根の思量は観察し難い

意識の思量性は顕在的であり、観察しやすい。意根の思量性は潜在的なものであり、観察しにくい。なぜなら、意識の自己反観力は比較的強く、独頭意識は五俱意識と独頭意識自身の一部の運行の行相を観察できるが、すべてを観察することはできない。意識が識を転じて智と成していないからである。仏はすべてを観察できるが、地上の菩薩の道種智は大部分を観察できる。

しかし、独頭意識は煩悩の遮障を受け、禅定力が不足し、識を転じて智と成していないため、意根の運行の行相を観察できない。それゆえ、意根の思量性は隠秘であると言わざるを得ないのである。実際には、仏や識を転じて智と成した菩薩にとっては、意根の行相を観察することは容易である。隠顕は完全に意識の観察智慧にあり、意根自体にあるのではない。

意根にも証自証分があり、微弱な反観能力を持つ。意根自身の運行の行相を観察することはできるが、意根はそれを表現できないため、意識(すなわち、いわゆる私たち)は知ることができない。意識が意根の運行の行相を知らない以上、意根の反観力が強いのか弱いのか、意識はやはり知ることができない。意識が知らないことに対して、多くの人の意識は「ない」とか「存在しない」と否定することに慣れている。意識が地球の公転や自転を観察できなくても、地球は静止していると言うことはできる。そう言っても差し支えはないが、事実には合わない。一般人の意識は、一体どれだけの事実や真理を観察できるのだろうか。ほとんど観察できない。無明が多すぎて厚く、遮障が重すぎるのである。そして、無明が多い人ほど、自分の無知を認めず、自分の判断を信じる。これはどうしようもないことである。

——生如法師の開示
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意根の独特な思量方式(二)

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思心所法があることは法執があることを意味しない

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